baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 インドネシアとデヴィ夫人

 帰りの飛行機の中で暇つぶしに借りた週刊誌に、デヴィ・スカルノが他人の事をボロクソに書いている記事があった。どうやら連載記事であるらしい。彼女は別に無視してもこちらには影響のない人なので僕の原則から言えば放っておけば良いのだが、常にスカルノ大統領夫人と言う肩書が付いているので、実際にはインドネシアでは彼女がどういう立場なのかを少々はっきりさせておきたい。
 デヴィ・スカルノは赤坂のコパカバーナのホステスであったのを、インドネシア初代大統領のスカルノに見初められ、当時インドネシアで力のあった木下産商の肝煎りでインドネシアに渡り、その後スカルノの第三夫人に納まった。第二夫人と言う説もあるが、インドネシアでは第三夫人で通っている。第一夫人はスカルノとハッタが独立宣言をした日に掲げた赤白の国旗を、前の晩に夜鍋をして縫い上げたファットマワティである。その独立宣言の録音と、ファットマワティ手縫いの国旗は、今でも独立記念塔に出向けば見聞き出来る。
 因みに、イスラム教では第四夫人まで認められているが、本来は戦争未亡人や戦争孤児救済の為の制度なので現代には余り馴染まず、実際にインドネシアでは複数の夫人を擁するケースは殆どない。特に今では、軍人や警察官は第二夫人を持つことすら禁止されている程である。もっとも田舎や低所得層には未だいない事もなく、例えばメガワティ大統領の時の副大統領であった、西カリマンタン出身のハムザ・ハズには第二夫人がいた。彼を自宅に訪ねた時に、同じ屋根の下に二人の夫人が同居しているのを目撃して驚いた記憶がある。
 それはともかく、インドネシアに渡ってからのデヴィはスカルノに寵愛され、特にスカルノ共産主義に傾倒して政治がおかしくなった晩年には日本企業のデヴィ参りが引きも切らず、デヴィを通さないと何も仕事が貰えなくなったと聞く。未だ真相は謎に包まれているものの、一般に言われるスハルトのクーデターでスカルノがボゴール宮殿に幽閉されていた間も、デヴィが献身的に身の回りの世話をしたと言う話もある。もっともこの部分はインドネシア人の口から聞いた事はないし、デヴィ自身は子供を連れて早々とフランスに亡命したと言う話もあり、僕には何が真実かは分からない。何れにしても重要な事は、デヴィがスカルノの夫人であった事は、今やインドネシア人にとっては恥辱以外の何物でもなく、出来る事なら歴史から抹殺したい事実なのである。
 どうしてそこまで嫌われてしまったのか。彼女の責任ではないのだが、先ず出自の問題がある事は否めない。インドネシア語では夜の風俗業に携わる女性を文字通り「夜の蝶」と呼ぶが、イスラム教徒が国民の85%をも占めるインドネシアでは残念ながら夜の蝶は誇れる仕事ではない。しかし何と言っても決定的な原因は、彼女がヌード写真集を日本で出版した事である。比較的ゆるやかなイスラム主義で、女性はスカーフを被らずミニスカートで歩いても構わないインドネシアでも、流石にヌード写真集はご法度である。1990年前後の事だったと思うが、今のヘアヌードなどに比べれば可愛い物だが、それでも胸も露わな写真集である。インドネシア人にしてみれば「敬愛するスカルノ大統領の夫人が、如何してあんな事をするのか。国辱である」と大騒ぎになり、あっという間に発売禁止となった。その後中国系のインドネシア人に興味本位で、是非日本で買って来て欲しいと随分頼まれたが、暫くは税関検査が厳しく没収が相次いだので、直にそんな依頼も沙汰止みとなった。大判の写真集だから結構重く、それを一度に10冊、15冊と頼まれるので、スーツケースに隠して運ぶ身にしてみれば堪った物ではなかった。
 デヴィはその後も欧州で浮名を流し、何人もの恋人が話題になった。その後米国に渡り、ついには酔って傷害事件を起こし、駐米インドネシア大使館の懸命の努力も虚しく確か3ヶ月程であったと思うが実刑判決を受け、実際に刑務所で服役した。またスカルノがデヴィの為に建てたヤソ宮殿、今の軍事博物館の所有権を巡って国を相手取って裁判を起こしたり、未だに建国の父と慕われる初代大統領のスカルノの嫁としては相応しくない言動が多く、国民にしてみれば「頼むからスカルノの名前は使わないで欲しい」と言うのが本音なのである。しかしその後の大統領夫人も、何れも汚職の噂は絶えないので、デヴィがここまで忌避されるのは何と言ってもヌード写真集が決定的だったと僕は思う。
 デヴィにはカリーナと言う美人の娘がいる。或る時僕は、スカルノの息子の嫁に当たる人物からカリーナに届け物を頼まれ、丸の内で昼食を一緒にしたことがある。当時彼女は日本でレポーターなどをしていたと記憶するが、背の高い、大層礼儀正しく上品で端麗なお嬢さんだった。そのカリーナ曰く「母は私とは別の人格ですから、私とは関係ありません」との事であった。彼女は日本語もインドネシア語も余り上手ではなく、フランス語が一番得意で、次に楽なのが英語だったので、僕は英語で会話をした。インドネシア語は苦手だと言っていたが、その頃は本当に下手だった。
 実の娘にも斯様に距離を置かれている訳だが、2001年にスカルノの長女のメガワティが大統領になり、日本が最初の訪問国だったと思うがインドネシア大統領として来日した事がある。デヴィにすれば娘が大統領になった事になる。そのメガワティが帝国ホテルでレセプションを開いた。僕にも大使館から招待状が来たので列席していた。会が始まって30分もした頃、突然デヴィが入って来てメガワティの隣の席に座った。ところがそれから10分もしない中に、レセプションのホステスであるメガワティが自室に引き上げてしまい、レセプションは何とも中途半端な形になってしまった。僕は席が離れていたから何が起きたのか良く分からなかったが、後から聞いた顛末だと、そのレセプションにはデヴィは招待されていなかったのだが、何処からか聞きつけて乗り込んで来、それを入り口で止められなかった大使館員に激怒したメガワティが早々に引き揚げてしまったと言うことであった。事程左様に、次期大統領選にも色気のあったメガワティにしてみればデヴィとは一線を画したかったのである。
 インドネシアでは毎年8月17日の独立記念日には独立記念塔の下の広場で大々的な式典が行われ、国の発展に功績のあった人や、その縁の人々が時の大統領から招待されて貴賓席に並ぶのが恒例である。この席にカリーナは毎年列席しているが、デヴィは招待されていないのか、ここ暫くは目にしたことはない。デヴィが日本でどういう活動をしようがそれは彼女の自由であるし、インドネシア初代大統領スカルノ夫人と言うのも決して詐称ではない。そもそも国籍は未だインドネシアらしい。しかしデヴィの過去の言動はインドネシア人の心を深く傷付けてしまい、イスラム教徒が多数を占めるインドネシア人にしてみればデヴィは一刻も早く消えて欲しい存在になっている。少なくとも、マレー系インドネシア人の前でデヴィを話題にするのは絶対に止めた方が良い。