baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ガルーダ航空墜落事故 (2)

 (昨日から続く)

 先ずは遺族にお別れをして頂ける状態にしなければならないので、直ぐに現地には医者を探すよう指示した。経験のない二人は何のことかなかなか分からなかったが、僕はそれ以前にも酷く損傷した交通事故の被害者を修復して日本に送り出した経験があるので、遺体の整形は医者の仕事で、外科医を見付ければやって貰えるからと説明し、早速夜中ではあったが外科医を当たらせた。それと、引き続きベルギー人の捜索もせねばならない。医者探しや、遺族や我々のホテルの手配、車の手配などはメダンにある当社の合弁会社の日本人の方々にも協力を要請し、お手伝い頂いた。
 こちらは、やっとガルーダが翌朝特別機を出すということになり、朝4時から飛行場で待機したが、現地の視界が悪いと、何時まで経っても飛ぶ気配がない。その間も連絡は取り続け、遺族の到着は翌朝シンガポールからメダン直行と確認、また遺体の修復も、欠けた部分はどうにもならないがそれ以外は何とか見られる程度に修復出来た、との報告。棺桶はガルーダが手配していると言うが、恐らく日本人の目には耐えがたい代物であろう事は想像に難くないので上等なものを発注させた。またドライアイスも抑えさせた。在庫切れになる前に押さえておかねばならない。そして、遺族が来られた時の為に、簡単な葬儀ができるような場所の確保も同時に指示した。
 結局その日は夜まで飛行場で17時間、殆ど飲まず食わずで待機したが飛行機は飛ばず一旦帰宅、翌朝2時からまた飛行場で待機していたところ、朝の5時頃にやっと出発する事が出来た。ジャンボ機に満員の乗客は全て遭難機の犠牲者、乗客222名、乗員12名、の遺族と関係者である。一様に疲れ果て青ざめた顔つきの人々、そしてそこら中から聞こえてくるすすり泣きの声、とても居たたまれる機内ではなかった。機上から下をみると、森林火災の一番酷い場所はカリマンタンであったのだが、スマトラでもそこかしこで、見慣れた焼畑の煙とは明らかに異なる大きな煙が上がっており、その年の森林火災の酷さを改めて実感した。メダンに近付くと視界はどんどん悪くなり、メダン空港では100m先も朧な有様で、景色はモノトーンになってしまっていた。冬のヨーロッパの霧の町を想像すれば遠くない。後から分かった事だが管制官の指示ミスで、旋回の指示を出す時に右左を間違えたか便名を間違えたかで、当該機は本来旋回すべき方向と逆向きに旋回して山に激突したらしいのだが、あの視界では山は全く視認出来なかったであろう。ちょうど同じ時刻に着陸許可を求めた125便というのがあり、管制官が125便と152便を言い間違えた、という新聞記事を大分経ってから読んだ事があるが、僕は真相は知らない。
 遺族の到着まで未だ間があるので、取り敢えず病院に直行し、病院の一角を借りた葬儀の場所を確認し、寝ずに頑張っている支店員二名を労い、引き続き葬儀の体裁を指示する。その間にも遺体が次々と運び込まれて来るが、もはや小さなプラスチックの袋に入れられて運び込まれてくる肉片ばかりである。山中なので夜間に野生動物に荒らされてしまうのだ。そして、名ばかりの、冷房もろくに効いていないホールに並べられて行く。未だベルギー人の遺体は見つからない。当社の社員以外に、JICAの邦人5名も搭乗されていたのだが、こちらの遺体も出て来ない。
 イスラムは本来24時間以内に遺体を埋葬してしまうので、遺体の引き取りも始まっている。ロクな確認もせぬまま、皆我先にと程度の良い遺体から持って行ってしまうらしい。まさか白人の遺体までは持って行かないと思うが、修羅場とは正にこのことであろう。赤道近くの熱帯で既に二晩が経過しており、異臭も甚だしい。
 一旦ホテルに入りチェックインをすると同時に、スウィートルームを借りて白い布を掛けたテーブルを用意し、一応ジャカルタから持参した黒いフレームに入れた写真を据え、奇跡的に遺体に付着して残っていたネックチェーンの一部、現金は抜き取られていたがクレジットカードが残っていた財布等を形見に置いて、仏教という事なので線香を立てたておいた。画や鏡には、半紙は間に合わないのでコピー用紙を貼った。衣服を改めて遺族をお出迎えする。皆さん放心の体である。
 お悔やみを述べ、状況の説明をしたが、受け答えも上辺で心もとない。不安を抱きながら部屋にご案内したところ、写真や遺品をご覧になって、事故が現実に感じられたのであろう、奥さまはもとよりご両親も突然号泣されてしまいどうにもならない、身の置き所もないのでそっと部屋を退散し、本社員共々隣室で待機した。一時間ぐらいも泣いておられたであろうか。飛行機事故の悲惨さをこの時改めて身を持って実感した。飛行機事故には、遺族に全く助走期間がない。肉親と分かれる前の心の準備をする時間が全く与えられないのである。しかも、まともな遺体もない。従い、事故の知らせを聞かされても現実の問題として受け入れる準備が未だ整っていないので、半覚醒状態から現実に引きずり込まれた瞬間の衝撃は計り知れないものがあるのであろう。悲惨の一語である。
 やっと少し落ち着かれたので、一緒に昼食をホテルで摂り病院に向かう。臨時の祭壇はそれでも指示通り白布と生花で立派に飾り付けられており棺桶も立派なものが来ていた。朝から手分けして必死に探していた坊さんも既に来ていた。イスラムの国とは言え、仏教徒も若干いるので坊さんも手を尽くせば居ない事もない。坊さんに読経をしてもらい、皆で焼香をした後我々は外に出てご遺族だけで暫くお別れをして頂いた。日本の葬儀のようにプロの葬儀屋が居る訳ではないので全て我々が仕切らなくてはならない。納棺などは病院にいる下働きが手伝ってくれる。異臭は益々堪え難い。故人に失礼とは思ったがハンカチで鼻を覆い遺族を外でお待ちする。
 漸くお別れも済み、一旦ホテルに引き揚げご遺族にはお休み頂く。病院で二日二晩寝ずに頑張ってくれた支店員は、気の毒なのだがもう異臭が染み込んでしまっていて傍に来られると始末が悪い。直ぐに風呂に入って三回位シャンプーをして服を着替えるようにと指示をすると、僕はそのまま領事館に赴き領事にご挨拶し、同時に遺体の搬送に必要な手続きをした。遺体の搬送には警察、病院からの書類と、通関に当たっては領事館員の検死が建前上必要である。飛行機会社も遺体の搬送は乗客に知られたくないので、普通は事前に準備するのであるが、この時はその日のジャカルタ発大阪行きの夜行便で搬出出来る事になった。メダン−ジャカルタの飛行機の手配と遺体の搬送もジャカルタの支店が上手く手配してくれ、我々はその日の夕方の飛行機でご遺族、遺体と一緒にジャカルタに移動した。夕方には現地の領事館員から、遺体の搬送に必要な書類についてのお問い合わせを頂いた。僕が先の交通事故の後処理で色々経験していた事が、どこもかしこもパニック状態になっているこの時には本当に役に立った。こういう事は地方の領事館の方はご存じないほど非日常的なのである。この間、ベルギー人社員の遺体捜索には全力を尽くしたが結局見付からなかった。また、お気の毒な事にJICAの方々の遺体も見付からず、後日合同荼毘に付された。
 ジャカルタで、最後に飛行機のドアまでご遺族を見送り、飛行機が飛び立つのを見送ったらどっと疲れが出た。その時、70時間くらいほぼ不眠不休だった事に始めて気付いた。ベルギー人の遺族は最初は日本人ばかりに気を遣い、自分の肉親を後回しにしたと相当恨んだ様であったが、状況を意を尽くして説明し、後刻事故現場にも案内し、改めて事故後のメダンの状況や、自分達が出来る事は精一杯やった事を伝えると、最後は納得しお礼を言って帰られた。日本の遺族からも、邦人犠牲者の中で唯一人、迅速に遺体を持ち帰れた事、そして現地でも精いっぱいの葬儀をして貰った事、などに後から鄭重なお礼があったと聞く。事実、やるべき事、気の付いた事、出来る限りの事、は精いっぱいやったつもりである。しかし、飛行機事故は悲惨である。遺体の損傷、遺族の心痛。今でも思い出すと眼頭が熱くなる。もう二度と味わいたくない、辛い、悲惨な経験であった。