baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

非[非日常的なこと] ガルーダ航空墜落事故 (1)

 毎年9月になると思い出す、痛ましい航空機事故がジャカルタ駐在中に起きた。1997年にジャカルタ発メダン行きのガルーダ152便のエアバスA300がメダン近郊に墜落したのだ。本稿は少々生々しいので、生々しいのに弱い方はお読みにならない方が良いかも知れない。
 毎年、秋になるとスマトラカリマンタン(ボルネオ)で森林火災が発生し、その煙が遠くシンガポールやマレーシアまで流れてスモッグ公害を発生させてしまうのだが、その年は特に酷かった。インドネシアでは地方に行けば行くほど未だに焼畑農業が行われており、また森林を開墾する時にも火を使う。延焼が頻繁にあり危険なので政府は禁止しているのだが、地方の農民は一番手っ取り早いこの伝統的な方法を止められない。
 インドネシアには豊富な石炭があるが、実はインドネシアの石炭は全て露天掘りである。日本のように地中深く坑道を掘って採掘するのではなく、地表数メーターをブルドーザーなどの重機で剥ぎ取り、後はそのまま露天掘りである。そしてこの地表の数メートルも多くの場合泥炭である。売り物にはならないので剥ぎ捨てるが、質の悪い石炭なのである。焼畑の延焼がこの泥炭に及ぶと雨期になって大量の雨が降るまで火は消せなくなる。というのは、泥炭に一旦火が点くと、火は深い方へ入って行ってしまい幾ら上空から水や消火剤を撒いても完全には消せず、消火作業が終わるとまた燃え始めてしまうのだそうだ。僕が子供の頃は学校はダルマストーヴだったから、確かに石炭の燃えカスには何時までも火が残っていた記憶がある。
 この年は乾期に雨が少なかったなどの条件が重なったのか、煙害が殊の外酷く、国際問題になっていた年だった。連日インドネシアのテレビでも、シンガポールやマレーシア、遠くタイでまで、インドネシアから流れ込む煙で町の視界が如何に悪くなり、マスクを掛けたりハンカチで口と鼻を覆う市民が如何に難儀しているかを放映していた。
 忘れもしない、そんな年の9月26日の夕方、ジャカルタ発メダン行きのガルーダが墜落したらしい、という第一報が事務所に入って来た。金曜日の夕方だった。通報してきたのは、メダンからその飛行機でジャカルタに戻る予定で、飛行場で待機していた日本人支店員二名である。慌てて社内で調べると、その飛行機にシンガポール駐在の日本人とベルギー会社々員のベルギー人の、二名の当社々員が搭乗している事が分かった。ジャカルタガルーダ航空の事務所には何を聞いても埒が明かないので、現地からの続報を気を揉みながら待つ。暫くして最悪の続報が届いた。墜落したと言う。
 早速出張中の支店員を足止めし、情報の収集に当たらせる。一方で僕ともう一人位が取り敢えず現地に飛ぶべく飛行機の手配をさせたが、煙害の為に飛行機は全てキャンセルされていた。そのうちに、当該機は山中に墜落した、生存者の捜索が始まる、との報告。最悪の事態を想定し、本社の人事部経由留守家族に連絡をさせると同時に、診療室から歯型など本人特定の役に立ちそうなものを取り寄せた。未だ遭難の確認もないうちから、こういう準備を始める自分が厭になるが、金曜日の日本時間夜であればもう他に選択肢はない。
 現地に足止めを食らった支店員二名は、墜落現場に入ろうとしたが既に軍に道路が封鎖されていて入れず、メダン市内で更に情報収集に努めていたところ、病院に遺体の搬入が始まったとの情報を得てそちらに赴く。広いホールが霊安室にあてられて、次々に遺体が運び込まれ始めたので、一人一人見て回るが、未だ日本人らしい遺体はないと言う。飛行機事故の常で遺体はどれも酷く損傷しており、どういう訳か顔の皮だけ、などというのもあった由。通常ならとても正視に堪えられない遺体の間を縫って、二人は勇を鼓して必死に探し回ったようだ。
 夜も大分遅くなってからだったと思う、メダン領事館からジャカルタの事務所に電話が入り、日本人らしい遺体が一体見付かった、との連絡。早速二名を検分に向かわせる。幸い、そのうちの一名は面識があった。検分の結果、遺体は損傷してはいるが間違いないと言う。もう夜半も回っていたと思うが、本社に訃報を連絡すると、折り返し、一番早い便でご両親が大阪と東京からそれぞれメダン入りされる、との連絡。シンガポールの留守家族とシンガポールで合流して、一緒にメダン入りすることになるそうだ。東京、大阪、シンガポール、何れの家族にも本社員が随行して来る。こちらは未だ飛行機の目途も立たない。(続く)