baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 幼少時からの外国語教育への疑問

 最近国際舞台で活躍出来る日本人の育成と言う事が声高に論じられ、小学校からの英語教育だとか、高校での英語集中教育など、恰も英語が出来れば国際人と言った論調である。非国際人が如何にも考えそうな卑近な思考であるが、僕に言わせればとんでもない話である。日本語が正しく使え、日本語で物事が正しく思考・判断出来、文化、歴史、宗教などの知識がしっかり身に付いていて、且つ言うべきことをはっきり言える人間が国際舞台で活躍できる人間なのであって、英語が上手な事などはそれ程重要ではないと思う。英語が出来れば国際人と言うのなら、米国人、英国人、豪州人は小学生でも皆国際人であろうか。
 多くの外国語を学ぶに当たり、日本語には母音や子音の数が少ない事や抑揚が少ない事、世界の主流の言語と発想が異なり語順が逆になる事、等々日本人にとっては大きなハンディキャップがある。欧米の言語には、発音はともかく共通のボキャブラリーが多々あるが日本語にはそれもない。しかし、音を聞き分ける耳は凡そ3歳までに出来上がるそうであるから、幾ら小学校から英語教育を始めたところでもう手遅れで、ネイティブと同じ耳は出来ない。増してや教師がネイティブでなければ、誤った発音が刷り込まれてしまい、百害あって一利もない。それなら教師はネイティブなら誰でも良いかと言えば、ネイティブにも色々な発音の違いがあるし、国により表現の違いもある。それらの比較も出来なければ違いも分からぬ子供に、小学生の時から英語を教える意味が果たしてあるのであろうか。
 手前味噌だが、僕の英語は日本人としては上手な方だと思う。仕事で英語を使う事は少しも苦にならないが、やはりヒアリングは苦手である。例えばオーストラリアに行った時の事、仕事の話ではコミュニケーションに少しの問題もなくスムーズに行ったが、昼食の時間になって相手が砕けて話し始めた途端に何を言っているのか分かり辛くなった。オージー訛りに不慣れな事もあったが、特に彼等同士の会話には時々全くついて行けなかった。所詮は僕もこの程度であるけれど、この程度でも世銀の会議に出て発言したり、人種がバラバラの会議で英語で議長をしたり、英語のパネルディスカッションで講演と質疑応答をしたりは出来るのである。僕の英語は半世紀も前に中学、高校、大学で普通に学んだだけである。英文科でもなければ、特別の授業を受けている訳ではない。留学した経験もないし、仕事でも英語がネイティブな国に駐在した事は一度もない。しかしネイティブとは対等に議論するし、発音も米語訛りだが、ネイティブに褒められる程度には日本人訛りは抜けている。
 つまり外国語などと言うものは、仕事で必要なコミュニケーション程度であれば、大きくなってからでも自分で励めば出来る様になるし、発音もそれなりに様になる。そして仕事で困らない程度に使える様になれば、ネイティブ同士の砕けた日常会話にもある程度は従いて行けるものである。勿論スラングは分からないが、そんな事は分からなくても大勢に影響はない。必要な事は相手が通じていない事を見て取って、ちゃんと正しい英語で言いなおしてくれる。大事なのは言葉が上手いか下手かではなく、人間として相手からそれなりの敬意を受け、信頼関係が築けるか否かと言う事である。言葉は飽く迄もコミュニケーションの手段に過ぎないのである。
 僕は国際人を育てるのに重要な事は英語力だという短絡的な考え方には反対である。そもそも英語と日本語は発想方法が大きく異なるから、日本語がしっかりしてから英語を学ばないと国籍不明人が出来上がってしまう。バイリンガルの人にはこの国籍不明人が時々いるが、こういう人には複雑な話が上手く説明できないとか、正しく理解できないとかの不具合が起こり得る。先ず日本語がしっかり出来て、日本人として恥ずかしくない教養を身に付ける事が大変に重要なのであって、英語は日本人英語でも一向に構わないと思う。例えばシンガポール英語の様に、英語とはおよそ似て非なるものでも世界では英語として通用するのだから、日本人英語でも一向に構わない筈である。肝心な事は必要なコミュニケーションがしっかり出来、例えネイティブが相手でも自分の考えをそれなりに主張出来れば良い。むしろ国際人として大事なのは、相手の宗教や文化や歴史を踏まえて相手の考えが理解でき、その上で対等に議論出来る事であると思うのである。その為には、小さいうちから外国語を教えるよりも、その時間を使って、正しい日本語を話し、もっと周囲の人間に気を遣う、礼儀正しい人間に躾けて、立派な日本人を育てる事に時間を割いた方が良い。それこそ「三つ子の魂百までも」なのだから。