baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 日本人は鬼

 戦争中に日本軍があちらこちらで残虐な行為を働いた事は未だに忘れられていない。しかし、その行為に直接関与した人達は段々少なくなってきていて、日本人としての当事者意識は薄れてきていると思う。
 僕は、30年程前に天津で、南京大虐殺の犠牲者が身内だったという人に会った。仕事で長期出張していた時の事だった。日本語が少し分かる力持ちの、背の高い初老の運転手が毎日ホテルから工場への往復の送り迎えをしてくれていた。時々中国側と日本側が交替で宴会をするのだが、彼はその宴会にもよく顔を出していた。未だ解放経済に移行する前の共産主義が現役の時の中国であったから、工場長も運転手も同列だったのだろうが、彼は酒飲み役で来ている風であった。
 僕を含め三人の日本人の滞在も一ヶ月に及び、懸案もやっと片付き、いよいよお別れの宴を迎えた。連日工場で一緒になって汗を流し、必死に協力してきた一ヶ月。しかも、最後の三日間、我々日本人はベッドもない工場のコンクリートに化繊の綿を直に敷いてその上に作業着のまま寝泊まりして、1日24時間態勢で機械の監視を続けるなど、出来る限りの誠意を尽くして新しい機械の導入を成功に導いたので、日本人と中国人との連帯感は否が応にも強まり、親近感は増していた。
 その最後の晩餐の夜、白酒の乾杯は限りもなく続き、我々のみならず中国側もいつになく酔っていた。すると件の運転手がやおら、南京大虐殺で身内を殺されたと我々に言いだした。怒る口調ではないが、明らかに文句を付けていた。日本側の代表的な立場にいた僕は、ただ平謝りに謝るしか術がなかった。一切弁解はせず、とにかくお詫びをし、二人で杯を重ねた。最後に、やっと彼も笑顔を取り戻し、50人くらい居たであろう宴会の参加者全員の拍手に合わせて二人で腕を組んでコサックダンスの真似をして、一同やんやの喝采の中、彼と僕とはひしと抱き合い、また白酒で乾杯をしてこの騒動は無事に終わった。
 間もなく宴会も終わり、中国側の客を全て送り出したとたんに、全身が急に虚脱した。僕はそれから丸三日間、急性アルコール中毒で全く物が喉を通らぬ地獄の日々を送る羽目になった。(続く)