baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 夜の電車に乗って思う

 今日は若い人達に誘われて、年寄りは唯一人なのだけれども特段の違和感もなく、彼等の仲間の転勤の送別会の席で一献傾けた。若い人達に大事にされる幸せを噛みしめながらの帰り道、ターミナルで郊外電車に乗ったのはもう夜の12時過ぎであった。この時間の電車は非常に混んでいる。扉のところで鴨居にぶら下がって入口を塞いでいる若者たちを押しのけて電車に乗り込んだ。吊皮も一杯なので足が踏ん張れるスペースだけ何とか確保して前を見ると、前の優先席に座っているのは何れも20代前半と思しき若い女性が4人であった。
 そのうちの二人は i-Pod か何か、耳に栓をして音楽を聞きながら、携帯に夢中になっている。メールなのか、野球の結果なのか、ゲームなのかは知る由もないが、自分の世界に没入して外界を一切遮断している風である。
 一人は、電車が動き出す前から早や白河夜船。別にお休みになるのはご自由だし、時には隣の人に凭れたりするかも知れないがそこはお互い様、それも宜しいではないかと思う。しかしである。そのあられもない姿は目のやり場に困る態である。大胆と言えば大胆な、痴漢でも尻尾を巻きそうなダイナミックなポーズで爆睡している。
 後の一人は、こんな時間に何故と思うのだが、念入りに化粧をしている。電車に乗ったら化粧をしないと不安に駆られる、新たな電車症候群かも知れない。ひとしきり化粧をしたら、やおら携帯をとりだしてなにやら忙しそうに携帯をいじり出した。化粧の後だから誰かと約束でも取り交わしているのかと思えばそうでもない。しつこく指を動かしているのはゲームでもしている風である。
 と、4人が4人とも、全く外界を遮断して自分の世界に閉じこもっている。それはそれで良しとしよう。しかし、そこに体の不自由な人やお年寄りが乗って来ても、彼女たちには全く目にも入らないであろう。公衆の中にいる時は公衆の一員として、大人ならばそれなりに果たすべき役割もあろうし、少なくとも多少は周囲に気を配り、必要に応じた対応が望まれる局面もあると思うのだが、彼女たちには望むべくもない様に思われた。
 僕だって酩酊している時には寝てしまう。しかし、本当に前後不覚に寝入ったのは長い人生でも精々一二度である。後は、何となく周囲には気配りをしている、少なくとも自分ではその積りである。公害が如きの寝姿、そして、起きていても他人の事には全く頓着しない風潮、を見るにつけ日本が段々未知の惑星になって行く様な感覚である。
 僕は以前、足を骨折して一ヶ月ほど松葉杖で、片道一時間ほど通勤した事がある。松葉杖は非常に疲れるし、吊革に掴まるのも容易ではない。使ってみないと分からないかも知れないが、歩くのも難しいし、何にも増して疲れる道具である。極端に言えば、片手片足−その時は不自由で地面に着けないのは片足だけだった−だけで電車の揺れを防ぎながら全体重を支えるのは、容易ではないのだ。ところが、席を譲って貰える確立は三分の一か四分の一、後は見て見ぬ振り、或いは全く無関心で目にも入れて貰えない。その一ヶ月の通勤は辛かった。それ以来、従前にも増してなるべく他人には親切を心掛けている。
 僕自身は未だ電車で敢えて座りたいとは思わない。だから、席を譲って貰えない恨みつらみを言っている訳ではない。更には、電車の中で自分のしたい事をして限られた時間を有効に使うのは大変結構なことだと思う。ただ、公衆の中で公衆の一員としての自覚と責任は忘れないで欲しいと思うのである。日本人の美徳とはそういう処にあったのではないか。自分を抑制し他人を慮る、そういう日本の良き伝統が廃れつつあるように思われて、ふと寂しさに襲われるのである。夜中の満員の郊外電車での感想としては、少し大袈裟なのだろうか。