baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 音楽〜絵画〜大道芸

 今日は、昼からの親子コンサートなるものを聴きに行った。オケはアマチュアで、合唱団も区立の少年少女合唱団、会場には小さな子供も多く賑やかだったが、それなりに楽しい演奏会であった。女性指揮者がなかなかのエンターテイナーで、上手に会場を盛り上げて楽しい演奏会を作り上げていた。
 演奏会がマチネーだったので、その足で上野の博物館へ。「皇室の名宝」展なるものが掛っている。現在の展示は「永徳、若冲から大観、松園まで」というタイトルで今月の28日まで、次に来月の12日から23日までが第二部として「正倉院宝物と書・絵巻の名品」という展示が予定されている。
 僕は日本画は普段余り観ないのだが、たまたま数日前にベルギーのシュールレアリスムの展覧会を観た。その時に、1830年代のエッチングに和紙が使われていたのに驚いた。日本はまだ江戸幕府の時代であり鎖国中である。その時代に既に和紙がヨーロッパの、しかもエッチングの様な大量生産品に使われていたことに驚いたのである。恐らく和紙のボリューム感が好まれたのであろうが、他方和紙は通常では染料が滲むので、おそらく礬砂引きなどの特殊な紙が使われたのだと思う。既にそこまで肌目の細かい貿易がなされていたのであろうか。もう一つ驚いたのが、シュールレアリスムなので極端な描写があるのは分かっているのだが、鳥獣戯画に出てくる動物戯画や、インドネシアの仮面のような目玉の飛び出た天狗鼻の顔が描かれているのを観た時である。19世紀末か20世紀初頭の作品なので、アジアの影響があることも1830年代の和紙ほど驚くには当たらないが、ヨーロッパの芸術にアジア的な要素が取り入れられているのがやはり新鮮な驚きだったのである。そんな前段があって急に日本画をみたくなったのであった。
 西洋の絵画を観た直後の日本画からは、全く違った意味で強くインパクトを受けた。やはり狩野永徳の唐獅子の屏風は圧倒的な迫力である。書道に通じる、墨筆による一気の力強い線。西洋絵画にあるような塗り重ねの精緻さではなく、一思いに一気に墨を引く力強さ。他方、伊藤若冲の細密な、計算し尽くされた画法。魚の絵などは余りに緻密で、絵と言うよりは図鑑のようで面白見には欠けるけれども、鳥の絵などは17世紀の絵とは思えない迫力で迫って来る。特に思いを新たにしたのは、日本画全般に共通する構図の自由さである。実際にはあり得ない組み合わせの構図がバランス良く配置され、遠近は無視され、時には三次元の世界が二次元に描写されている。普段から言いつくされていて別に目新しい発見でも何でもないのだが、その事を改めて実感したのである。ヨーロッパのシュールレアリズムを日本では300年先取りしていたような心持であった。その癖、徹底的な写実主義の部分もあるのだ。
 後半は明治、大正、昭和の美術品である。横山大観の大作など、確かに素晴らしいのだが、あまりに身近に当時の皇室の絶大な権勢とそれに対するおもねりを感じてしまい、鼻白んで早々に退出した。
 外に出ると、上野では一昨日から大道芸のフェスティバルをやっていたらしい。日本の大道芸は余り見た事がないと昨日このブログに書いたからかどうか、かなり洗練された日本人の、何と言うのか忘れたがボールやボーリングのピンのようなものをお手玉のように投げ上げる芸、アングロサクソンの人が演じるパリの街角を思わせるパントマイム、烏天狗が尺八を吹いて練り歩くその後ろから竹馬に乗った大男が踊って歩いたり、ヨーロッパの何処かのお祭りの映像で見た事のある竹馬に乗りスカートをはいた身の丈5mもあろうかというノッポの行進など様々であった。なかでも素晴らしかったのは、中国の曲技団のアクロバットで、そのフィナーレは木製の椅子を8m位の高さにまで段々と積み上げて、最後は不安定なその椅子の上で命綱もネットも使わずに若い女性が逆立ちをしたり海老反りをしたり、逆立ちのまま体の向きを変えたり、高所恐怖症の僕は思わず汗ばむほどの名演技であった。もう大道芸の域は遥かにはみ出した、れっきとしたプロの演技であったが、日本ならあんなに素晴らしい演技でも通りすがりの道端で見られるという、アジアからは考えられない豊かさを実感したものである。