baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ジャワ舞踊とガムラン

 今日は友人に紹介されたジャワ舞踊とガムランの公演に行って来た。インドネシアに通算12年半もいたというのに、実はインドネシア舞踊もガムラン演奏もちゃんと見聞きした事がなかった。中部ジャワの王宮に行けばガムラン演奏はやっていたし、運が良ければ能舞台のようなステージで踊りも見られた。しかしそれは観光客用のアトラクションであって、観る方も演ずる方もそれなりのものであった。ホテルのロビーでは泊まり客の歓迎によくガムランをやっている。しかしそれらのガムランは小人数の、やはり観光客用のもので、とても本格的なガムランオーケストラではない。舞踊はと言えば、それこそ観光客用のレストランでのアトラクションか、精々バリで観た、やはり観光客用の公演でしかなかった。恥ずかしいと言えば恥ずかしいのだが、よほど興味を持って探さないと本当の公演は見付からない。インドネシアでもマイナーな催しなのだ。とは言え、公演としてはマイナーでも、祭り事の出し物としては実は定着している。やはりインドネシアで歌舞音曲と言えばダンドゥットゥ(ラテンのリズムに共通する、独特のリズムを伴ったインドネシア特有のアップテンポなダンス曲)かガムランと民族舞踊なのである。
 今日の公演は小振りの、450人収容ぐらいであろうか、都内の公会堂で行われた。舞台の後ろ半分にぎっしりと並べられたガムランの楽器。これだけの数の楽器が一堂に揃うのを見るのは珍しい。増してや一度に鳴るのを聞いたのは初めてである。友人の話では、ガムラン楽器の音程は地方により異なるそうである。絶対的な音程というものがないらしい。実はそんな話も聞いたばかりだったので興味深く開演を待った。最初の出し物は音楽だけであった。青銅や真鍮の鋳物で出来ている夥しい数の楽器なのだが、見事に調律されている。絶対音がないのなら、職人の熟練の耳で、ガムラン楽器一組ごとにじっくりと調律するのであろう。音色が素晴らしい。ホテルのロビーで聞くのなどとは雲泥の差である。絶品の仏壇の鉦のように澄んだ音が、何時までも透明な余韻を引くのである。そして、その独特のリズム。拍子を刻んでいるようで、時々シンコペーションでもなく何とも言えぬ間で音が入る。奏者のリズム感が素晴らしい。時々あれっ、と思う間で音が入るのは間違えたのかわざとなのか。澄明な音と荘厳な雰囲気の中にもしっかりと強弱があり、アチェルランドもリタルダンドもある。指揮者なしである。初めて真剣に聴く、インドネシアの伝統音楽であった。しかも大部分の奏者は日本人であった。
 次は舞踊である。舞踊は素人で全く分からないのだが、インドネシアから来た女性二人は素人目にも素晴らしかった。他にもインドネシア人がいたのかも知れないが日本人舞踊家と混じっていて良く分からなかった。ただ、先生である年配の女性と、トップダンサーである若き女性の踊りは何れも素晴らしかったのである。若き女性は、挙措動作、表情、どれをとっても一部の隙もない優雅さであった。しなやかに曲がり微妙に表情を作る手の指、あくまでも優雅な目線、そして気品のある動きのなかにも何かしら漂ってくる情感。時に小走りになる。しかし顔も上体も少しも動かない。能や狂言で同じ動きをみた事がある。サルンの裾から見えるつま先。ある時は指を反り返し、ある時は握る様に指を折り曲げている。優雅な表情、優雅な体の動き、繊細な手の指の表情、そして足の指先まで神経が行き届いていながら、少しもそれを感じさせない体全体のゆったりとした優雅な動作。ドキドキする踊りは見た事があるけれども恍惚とする踊りは初めてであった。
 そして先生の踊り。これは日本人の詩と曲に先生自らが振付をした創作舞踊である。ご詠歌のような歌がある。現生と天上の狭間を彷徨うような暗い、青い照明と、星空をイメージしたLEDの灯るバックスクリーンを背景に、緩やかな、緩やかな、この上なく緩やかな動きの踊りであった。あれだけ動きが緩やかだと重心がずれたり足がグラついたりするのが普通だと思うのだが、相当なご年配と見受けられるのに、全く余分な動きやブレがない。手足の動きも極めてゆっくり、しかし少しの淀みも加速もなく、常に安定した、且つこの上なく滑らかで緩慢な動きなのである。踊りと言えば動きを連想する。しかし、この踊りは殆ど動きが無い。ご詠歌が続く中で、淡々と、清らかな時間が流れて行く。恍惚とはまた異なる、忘我の境地であった。
 今日は改めてインドネシア伝統芸能を通して、インドネシアの奥深さを再確認した一夜であった。