baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ベトナム訪問記 (1)

 友人がベトナムから帰って来たと電話をくれた。彼は音楽のマネージメントの仕事をしていて、小振りなオーケストラ、と言っても総勢50人位だろうが、の渡航演奏会を仕切って来たのだ。スポンサーはベトナム航空。色々苦労したかと思ったら、食べ物は美味しいし大変気に入って帰って来たようだ。苦労したのは帰りのチェロの積み込みだけだったと言っていた。チェロには座席が一席要求される。もちろん上の棚や足元には置けないし、かと言ってチェックイン荷物には出来ない。チェックイン荷物は零下50℃に曝されてしまうのだから。ベトナム航空の責任なのだが、何かの手違いでチェロの座席が確保されていなかったらしい。アジアでは何処にでも日常茶飯事にある話であるが、普段カナダやヨーロッパにしか行きつけていない彼にとっては相当の奮闘であったらしい。
 それで想い出した。僕が初めてベトナムに足をおろしたのは1984年、まだドイモイの数年前、コチコチの共産主義国家だった時代である。当時ビザを取るのは共産党系の貿易商社の名前を借りて取るのが一般的であったが、全共闘の洗礼を受け代々木に漁夫の利を取られた、自称良識派だった僕は共産党には死んでも世話になりたくなかったので、自分で代々木上原ベトナム大使館にビザ申請に行った。当時は共産党系の旅行社以外、代行してくれる旅行社も未だなかった。流石に共産主義国家、おぞましい程に厳重だった鉄門扉を覚えている。結局通常は4週間位で取れるビザに10ヶ月掛った。それでも、他社の名前を借りずに取ったビザに僕は得意であった。全社を挙げて初めての事だった。
 ビザには現地旅行者の監視役がセットになっていた。旧ソ連のインツーリストと一緒である。ビザが取れたので勇躍現地入りした。未だ現地支店が一時撤退していた時分である。当時はハノイが首都であり役所の所在地であったので、先ずハノイ入りが一般的であった。パスポートコントロールから緊張させられた。職員が木製の棒を出したり引っ込めたりして旅客を通すのだが、パスポートを点検している間は体の前後を棒で挟まれて身動き出来ないのである。しかも時間が掛る。初めての時ではないが、写真と顔が違う、と詰問された事もある。5年も前に撮った写真なら髪の毛の量だって変わるだろう、と言い合いをしたこともある程、徹底的にお役所仕事であった。出国時には1ドルまで調べられると言われた外貨申告もあった。それは事実であった。毎回ではなかったが、帰国時には財布ごと取り上げられて1ドルまで数えられ、入国時の申告金額と、正規の領収書と、残高が合うかをチェックされる事が度々であった。このチェックに30分以上も掛った事もある。某日本の大手企業の人は、この外貨チェックで飛行機に、既にチェックインしていたにも拘わらず、乗り遅れたそうである。乗り遅れれば次の飛行機まで一週間だった。
 何とか税関を出ると、出口でサイゴンツーリストから派遣された運転手が僕の名前を書いたプラカードを持って待っている。ビザ発給と同時に自動的に割り当てられる運転手である。彼に従いホテルにチェックインすると、その足でサイゴンツーリストのオフィスに行くのがコースである。そこで外人登録をするのだが、この登録だけで24時間掛った。登録が終わるまではホテルから出てもいけないのである。つまり、ハノイに着いてから丸一日は全く仕事にならないのである。アポすら取る事が許されなかった。ホテルの交換が電話を外界に繋がないのだから、手も足も出ない。
 ようやく外人登録も終わりアポを取る。当時は工場は全て国営、交渉相手は公団であった。アポがハノイ市内なら良いのだが工場でのアポとなると今度は旅行証が必要となる。これにも丸一日掛った。何処へ行くのも運転手と、頼みもしない通訳の監視下であった。アポが上手く取れない時には、勝手に観光をアレンジされ、見たくもない神社仏閣に案内された。
 そんなこんなでやっと交渉も取り敢えず妥結すると、中国と同様覚書を作りたがった。これは英語だったので、その事自体は良いのだが、覚書に調印がすむとレモン・ウォッカが出て来た。相手は女性だし、ベトナムは南方という先入観があったので馬鹿にして乾杯をしていたら、あっという間に二本目が出て来て、未だ昼前だというのにとんでもない目にあわされた。ウワバミのような女性であった。慣れない旅の地でたった一人、その後たっぷり24時間悶えたものである。(10月14日「酒」
 当時は未だドン(ベトナムの現地通貨)の闇交換が横行していた時代であるが、面白かったのはハノイホーチミンでレートが3倍近くも公然と違っていた事である。闇交換は外貨管理が厳しい折から、大した金額を換える訳でもないので遠慮したが、ホテルのレートが南とは3倍ほども違ったのである。東京と大阪でドル70円と200円の差である。ホーチミンに入ってから気付いたので、始めての時は後の祭りであった。(続く)