baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ベトナム訪問記 (2)

 当時ハノイには外国人が泊まれる高級ホテルは2つだったと聞く。僕は旅行社が予約してくれたタンロイ・ホテルという、その昔にロシアが建てた湖の上に張り出した2階建ての広大なホテルに泊まった。空調は入っておらず、各部屋には旧式な騒々しいウィンドウエアコンが設置されていた。ホテルから湖を眺めていると、小舟で漁をしている男が見えた。よく見ていると、進行方向に向いて座り、足でオールを使っている。両手は自由で前も良く見えるので、舟を漕ぎながら網を扱っていた。太古の昔、ガレー船の時代から人は後ろ向きに座りオールは手で漕ぐものと相場が決まっていたものを、こういう合理的な発想をするベトナム人は賢いと感心した。
 窓はガラスのガラリになっていた。ハンドルを回して開け閉めするタイプのものである。湖の上に部屋があるので、窓を開けると蚊が沢山入り込んで来る。夜中に眠れなくなるので出掛ける時は何時も窓を閉めて出るのだが、帰って来ると掃除の人が開けてしまっていて、時には部屋の中に蚊柱が立っていたりして閉口した。次の出張からは必ず蚊取り線香を持参した。
 食事はホテルのレストランである。勿論外へ出ても良いのだが、地理が分からない事もあるがそれ以上に屋台に毛の生えたような食堂ばかりで、言葉も通じないし入れる雰囲気ではないので、やむなく何時もホテルのレストランで食べていた。レストランでは、メニューに7品目しか書いてない。7品目には珈琲とお茶とバナナがある。ポテトフライもある。残るのは魚のフライと鶏のソテー、後一つは覚えていないが主菜ではなかったので、毎日魚か鶏の二者択一しかなかった。朝は不味いパンと卵焼きぐらいだったか。二、三日もしたら飽きてしまい朝ご飯は珈琲だけになってしまった。先のウォッカは、そういう朝食抜きの時の話であるから、一層酷い事になったのであった。
 当時は本社との連絡はテレックスを使っていた。テレックスは本館の中二階のような部屋に機械が数台おかれていて、そこに入って来る。当時支店を開いていた友好商社の事務所もこのホテルに沢山入っていたので、テレックスルームは各社共有である。勝手に自分で入って行って、自分宛のテレックスを取って来るのである。僕は駐在ではないので他の案件には興味はなかったが、同じ機械に各社からのテレックスが入って来るので他社のテレックスも丸見えで、競合他社の動きが分かってしまう具合の悪いシステムであった。放っておけば何れは部屋に届けてくれるのだが、そんな長時間テレックスルームに置きっぱなしにしておくと誰に見られるか分からないので、各社の駐在員は頻繁にテレックスルームに通い、自分宛のテレックスはなるべく入って来たら直ぐに自分で切り取って持ち帰る様にしていた。未だ自前でテレックスが引けない時代であった。
 ハノイの街は、建物こそ旧く高層建築もなかったが、フランスの薫のする瀟洒な建物が並び、共産党のお膝元であるので、清潔に保たれている印象であった。あまり活気も感じられなかったが、人々は豊かさとは無縁ながらも清楚な身なりで歩いていた。歩いている人、公団の面談に出てくる人、商店の人、女性が圧倒的に多い。特に働き盛りの男性が極端に少ない。若い男性はベトナム戦争で消耗してしまった事を如実に実感した。たまに目につく中年の男性には、明らかに弾傷の痕とわかる傷を顔や手に負っている人が非常に多かった。ベトナム戦争での、アメリカの犠牲者は58千人、これに対しベトナムの犠牲者は100万人以上。1984年といえば未だ南ベトナム解放から10年も経っていない時だったのである。街の一角に後ろ手にしばられ跪いている、お白州の罪人のような格好の男の像が置いてあった。北爆の際に撃墜されて捕虜になった米兵第一号が捕まった場所の記念碑だった。街の中央広場にはホーチミン廟が建てられている。そこにはホーチミンの遺体が安置されている。通訳はしきりにそこへ僕を案内したがったが、何時も入場者が列をなしていて、ヤギ髭の、萎びた老人の遺体をわざわざ見る為に並ぶのは面倒なので何時も通り過ぎていた。その都度、通訳は酷く不機嫌であった。恐らく外国人にホーチミンの偉大さ、共産主義の偉大さを滔々と説明する口上が沢山準備されていたのであろう。(続く)