baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 いよいよ冬

 今年も残すところ3週間、師走真っ只中である。そして今日は一日寒かった。終日冷たい雨が降っていて、外に出るのも億劫だった。でも、ふと思い出すと僕が子供の頃のこの時期に冷たい雨が降れば、東京でも朝や夕方には霙や雪だったのではなかろうか。昭和30年頃の昔話である。
 未だ冬休みになる前のこの時季、冷たい雨の中を小学校から家に戻っても家には暖房もなかった。おやつに蒸かし芋とか石焼芋などを齧り、早く雪にならないかと庭ばかり見ている。夕方になると母親が炭熾しで炭を熾し、居間の長火鉢に炭を入れる。勿論瞬間湯沸かし器などは未だないので、それまではお湯もなければ暖房も全くない。縁側は大きなガラスの引き戸で、その内側の渡り廊下と居間の仕切りは障子一枚でしかなかった。台所は床下に漬物桶などの物入れがあるので足元から冷たい風が吹き込んでくる。
 炭が熾り過ぎないように適当に灰を掛けて、長火鉢には鉄瓶を乗せる。その中にお湯が沸いて、鉄瓶はチンチン音を立てながら蒸気を噴き出す。程良い加湿器だった。我が家の炬燵は掘り炬燵ではなく、畳の上に薄べりを敷いて乗せるだけの電気炬燵だった。その電気炬燵も今のそれとは大違いで、炬燵の中に60w位の電球を一つ入れただけのものだった。それでも炬燵布団を掛けて皆で足を入れれば充分温かかった。
 子供達は炬燵に入って、みかんなどを食べながらめいめい本を読んだり工作をしたり、宿題も炬燵でやった。未だテレビはなかったし、ラジオは聞きたい番組でもなければ滅多に付けない。付けても雑音が多くて良く聞こえないという事もあった。5球スーパーとかマジックアイという同調状態が眼で分かる緑色の真空管の付いたラジオが我が家に来たのは僕が小学校も高学年になってからだった。テレビはそれこそ6年生になるまで我が家には来なかった。それまでは相撲やプロレスは近所のお大尽の家で見せて貰ったり、夏なら駅前のテレビで遠くから小さな画面を見ていた。 
 そして冬休みが来れば凧揚げである。新宿から直線で5km程の我が家の辺りにはビルは無く原っぱも多かったから、冬は何時でも木枯らしが安定して吹いていたように思う。来る日も来る日も近所の原っぱで凧を上げていた。風向きによっては近くの街道の土手から畑に向かって凧を上げたりもした。その街道というのは今の井の頭通りである。あの道で凧を上げるとか道沿いに畑があるなど今では考えもつかないが、僕が子供の頃はそんなにのんびりしていた。この時期の朝に井の頭通りから西を望めば子供の背でも富士山がくっきりと見えた。
 そんな事を想い出すと、昔は冬は随分寒かったように思う。東京でもひと冬に何度か長靴が上まで潜るような雪が降った。すると雪が長靴の中に入ってしまい、足が冷たかった。我が家の庭に雪の滑り台や雪だるまが作れた。学校では雪合戦が出来た。剣玉の球が飛んでしまって雪の中に潜ってしまい、何処に行ったか分からなくなって、雪が溶けるまで4-5日待たなければならなかった事もある。そんな雪が珍しくなかった。遊びでスキーを履いた事すらある。逆に今の夏は熱い。昔は夕方になれば涼しい風が吹き始め、縁側に出て蚊取り線香でも焚きながら夕涼みをすれば汗も引いた。今は車の排気ガスや冷房の排熱で外気は夜遅くまでベトベトと、堪えられない程熱くなってしまった。
 この50年間で、やはり環境は激変していると実感する。東京の人口が増えたこともあろう。でも、人間が怠け者になり、寒い時には温かく、暑い時には涼しい環境を求め、移動には快適な温度と長く待たずに素早く移動出来る足を求め、家の中でも何時でもお湯が出て一年中似たような温度の生活が出来る事に慣れてしまった。大荷物を背負って歩いている人もついぞ見かけなくなった。家も、省エネと言えば断熱効果の高い家作りの事で、風通しの良いスカスカの木造建築も捨てがたいなどと言えば年寄りのノスタルジアと一笑に付されるであろう。しかし、地球の環境を守る為にも子供達に四季を体感させる為にも、大人ももう少し春夏秋冬に向き合う生活に舵を切っても良いのかも知れない。そう言えば、一年中夏のインドネシアに住んでいた時は春夏秋冬が本当に懐かしかった。そして彼の地では今でも大荷物を頭に乗せてテクテク歩いている人が珍しくない。