baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 医療の故意と過失

 奈良の病院理事長が同僚医師と共に業務過失致死で逮捕された。過去に経験のない肝臓の腫瘍嫡出手術、しかも良性腫瘍と判断されていた不要の手術で患者を死亡させたそうだ。この医者は以前にも虚偽の心臓カテーテル手術で不正な診療報酬請求をして実刑判決されている悪徳医師であるようだ。こんな医者に金目当てで体を切り刻まれた挙句に51歳の若さで死亡した、今回の事件の患者やその家族はたまったものではない。
 以前、同様若い医師が経験のない内視鏡手術で14時間余もの長時間患者をいじり回し、途中で同僚医師が内視鏡手術の中止を言い出したにも拘わらずに耳を貸さず、患者が死亡した事件があった。当然この医者グループも実刑判決となった。
 こんな医師は一言で言えば人非人であり医師の風上にも置けない犯罪者である。他人の命を預かる医師が、金目当てだとか経験を積む目的で安易に患者の命を弄ぶという、信じられない事件である。或いはロクに消毒しない器具で眼科の手術をして、患者に後遺症が遺ったという悪質な事件もあった。医者の倫理が問われる事件である。
 一方で、後々の医療過誤訴訟を恐れて急患を受け入れないケースが急増しているそうだ。専門医がいない、当直医が手一杯、を理由に急患の受け入れを断るケースである。救急車の到着が幾ら早くても、それから1時間かそれ以上も、受け入れ先を探す事が珍しくないそうだ。僕の父親も晩年に急性肺炎で救急車のお世話になった時に、小一時間も救急車のなかで受け入れ先が見つかるまで待たされた。しかもその間に小用を催したのだが、救急隊員には小用の世話は出来ないと突っぱねられ、付き添っていた妹が大変な思いをした事を思い出した。
 勿論、冒頭の如き医者に医者の資格はない。しかし、こういう確信犯ではない、医師として、一人の人間として、精一杯やったにも拘わらず結果として判断ミスがあったというケースも当然あり得ると思う。人間であればどうしても判断ミスという事は避けられまい。にも拘わらず、昨今は判断ミスは絶対に許さず徹底的に司法に委ねて追及する風潮が見られる。確信的な悪徳医者の犯罪を追及するのは良いが、だからと言って何が何でも金に換算して他人の過失を追及する風潮に僕は賛同できない。勿論司法の場では悪質なケースでなければ有罪にはなっていないと思うが、一旦起訴されれば結審までの手間暇エネルギー、経済的な負担は大変なものであろうから誰でも訴訟は避けたいのは当然である。つまり、急患受け入れを拒否する医療機関を一概に責められないと思うのである。
 学校で子供が怪我をするとすぐに賠償請求に持ち込み、話が付かなければ司法に持ち込むモンスター・ペアレント。遊んでいて転んだ位で怪我をする、骨折をする子供の育て方は棚に上げ、なんでも他人が悪い、管理が悪いと他人のせいにしてお金を請求する風潮は、僕は大嫌いである。そんな事に時間とエネルギーを浪費する前に、子供に受け身の一つも覚えさせるのが先決だと思うのだ。
 怪我や病気は時間との争いである事も多いし、緊急であればあるほど施術する医師の体調や疲労度とは無関係に救命措置をしなければならない。そこには医師の人間としての限界もある訳で、平常時には分からない緊急時の難しさが存在すると思う。更には、ちょっと次元は異なるのだが、患者の寿命というファクターも僕は否定しない。しかしながら、昨今は医療過誤を追求する遺族の訴訟事件が屡報道される。その結果病院は慎重になり、救急救命が必要な患者が盥回しにされあたら命を落としている。病院は専門医がいなければ救急患者の受け入れを拒み、学校の教師は子供たちの遊びを増々制限する。これが果たして正しい方向に向いているとは僕には到底思えない。身内が、自身が病気なら医者を信じて後は運命に身を任せ、子供は思い切り遊ばせて色々な経験を積ませるのが筋だと僕は思うのだ。