baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 これからも「誠心誠意お話を.....」

 鳩山由紀夫がこの頃得意な言い回しが「誠心誠意」である。その後に続くのは、お話をしたり、意見交換をしたり。そしてこの人は、自分が誠心誠意の「良い子」であれば何でも通ると思っているようである。どうも鳩山由紀夫という人は、基本的には頭が悪いのと優柔不断なだけで、余り悪い人ではないのかも知れない。贈与税の脱税を図ったりする処を見れば「悪い人ではない」と言うのは大間違いなのだが、お金には吝いかも知れないけれども根からの大悪人と呼ぶには余りにも頭が悪いように思われる。
 昨今の「誠心誠意」の濫発も、今に至るも未だ事態が飲み込めていないのか、或いは誠意を尽くせば無理難題も押し通せると思っているのか、とにかく全く場違いの遣い方である。一体、日本人には真心を込めて意を尽くせば、何れは必ず相手にも通じるという考え方があるのは事実である。子供が友達に悪い事をしてしまい、謝らせる時などに良く言い聞かせる言葉である。同時に相手の子供には、あれだけ心から謝っているのだからもう許してあげて仲良くしなさい、と言い聞かせる。どうやら鳩山由紀夫の誠心誠意はこのレベルの発想のようである。どんなに相手が頑なでも、誠意を尽くせば必ず分かってくれると思い込んでいるようだ。
 しかし大人の世界では、根本的な部分で利害が一致するなり相互に理解し合える事が何らかの事情でボタンの掛け違いになっているような場合以外は、相容れない事案を誠意の押し売りで押し通す事など出来る筈もない。つまり、お互いが理解し合い受け入れられる余地があるのが先ず大前提で、それに対して誤解や行き違い、意見の交換不足で理解し合えない時に、理解させたい側が誠心誠意努力をすれば相手にもその心意気が通じて、最後は理解し合える事があるという事である。しかし相手が誠意などは認めないという仁であれば、幾ら誠意を尽くしてもボタンは掛け違ったままと言う事も当然ある。
 全く別の次元で、他人の理解も同意も賞賛も求めず、ただ他人に迷惑は掛けずに厳しく己の生き方を貫く人を称して「誠心誠意の人」と呼ぶ事はある。しかしそういう聖人のような人は、結果を求めないし他人に自分の「誠心誠意」を押し付ける訳でもない。こんな人は政治家にはまるで向かないし、そもそも立候補もしないから今日の話題には不適合である。
 要するに、誠心誠意という言葉は通常は、特定の条件が整っていて初めて使える言葉である。ところが鳩山由紀夫は、こちらが誠心誠意なら無理難題でも押し通せる、何れは相手が受け入れてくれる、と思ってでもいるように何とも場違いな状況でこの言葉を濫発している。オバマ大統領が来日した時に、普天間基地移設問題について誠心誠意日本の事情を説明すれば理解して貰えると思っていた、という官邸筋の話があると聞く。誠意を尽くせばオバマ大統領が県外移設や国外移設を理解して呉れるだろう、という甘い考えを持っていたようだ。当時は海兵隊が沖縄にいる事が抑止力に繋がるという認識すら持っていなかった訳だから、何をか況やだが、鳩山由紀夫一人の誠心誠意で日米間の永年の懸案を一瞬にして思い付きの案に変えてしまえる筈がない。元々のキャンプ・シュワブ海上移設案がそんなにいい加減なものだった筈もない。
 昨日も、普天間基地機能の徳之島への一部移設案に対して徳之島の三町長に取りつく島もなく拒否されても尚、「誠心誠意対話を続けたい」と言っていた。こんなものは誠心誠意の押し売りである。そもそもの誠心誠意を尽くす土俵が全く無いのであるから、相手の神経を逆撫でするだけである。そんな見込みのない事に余計な時間とエネルギーを費やす余裕はもうない筈なのだが、日本は本当に救いようのない総理大臣を選んでしまったものである。