baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

  大相撲の賭博問題に思う

 大相撲界の、それも幕内力士や部屋持ち親方の賭博関与が大問題になっている。このままではもうすぐ始まる名古屋場所の興行すら危ぶまれる大規模な賭博汚染である。協会理事長のお膝元でまで関与を上申した力士が出て来たから穏やかではない。そして、全部が全部ではないようだが、一部の野球賭博には裏に暴力団がいるから始末が悪い。それにしても琴光喜などは数千万円単位の入れ込みようであったそうだから、我々の眼には尋常ではない。もっとも海外のカジノではその位の金額を日常に張っている日本人は珍しくもないそうである。
 昔から興行と暴力団はつきものである。興行の際の色々な仕切りは警察よりも地元の暴力団に頼む方が、金は掛るが間違いが無いのは恐らく今も昔も変わらないであろう。警察と言うのは余程の事がないと、事件が起きなければ動いてくれない。昨今の、ストーカーに付き纏われて警察に相談に行ったが警察が特段動かない間に被害者が殺害されてしまう事件がその良い例である。後になって事件の捜査に動き出しても、それこそ後の祭りである。
 更に、警察は暴力団の仕事の一つである興行の仕切りはやってくれないから、興行関係者にはどうしても暴力団との繋がりが出来てしまうのは自然であろう。実は借金取りにしても然りである。どんなに悪徳な債務者であっても警察は債権の取り立てには動いてくれないから、どうしても暴力団に頼んでしまうという図式が無くならない。警察は暴力団の取り締まり、特に韓国、台湾、中国系の、そして昨今はロシア系の暴力団ではなく、日本の暴力団には徹底的に厳しいが、やはり暴力団の取り柄を警察が肩代わりするぐらいの仕組みができないと、暴力団の根絶は難しいと思う。勿論暴力団を助長するのに賛成している訳ではなく、暴力団の資金源を絶つ事には大賛成である。暴力団は所詮暴力を凌ぎにしているのだから、いないに越した事は無い。ただ、警察のスタンスが事件が起きてからではないと動かない限り、暴力団の根絶は難しいだろうと言うのが率直な感想なのである。
 そんな、興行で成り立っている大相撲と暴力団が色々と繋がっているのは想像に難くない。ついこの間も暴力団に相撲の特等席を横流しして部屋を潰された親方がいたばかりである。恐らくはその暴力団が部屋の谷町でもあったのであろう。力士とて谷町から声が掛れば中々断る訳には行くまい。その谷町が暴力団とは恐らく初めは分からないであろう。現に今回の暴力団絡みの野球賭博にも、仲介役の元力士や床山がいる。そういう環境で大相撲と暴力団との関係を断ち切るのは容易ではなかろう。
 しかし他方、僕には未だに賭博行為が違法と言う現在の法律の理念が分からない。暴力団の資金源にならないように私設胴元を取り締まるのは分かる。しかし賭けに参加するのは飽くまで個人の問題であり、他人に迷惑を掛ける訳ではない。だから僕は賭け事が違法であるという現在の法律が理解できないのである。僕自身は賭けには全く才能が無いので殆どやった事は無いが、それでも麻雀やゴルフには多少の握りは付き物であるし、職場でやっている高校野球トトカルチョなどに付き合いで参加した事が無い訳ではない。警察も日常の慣習の範囲内なら目をつぶると聞くが、それでも賭け麻雀や賭けゴルフは金額の多寡に拘わらず正確に言えば違法行為である。そこに無理があると思う。
 賭博は合法にすれば良いのである。博打自体を非合法にするから却って暴力団の資金源にしてしまう。胴元を許可制にして胴元と暴力団の関係を断ち切り、一般人には賭博を解禁すれば良い。現に地方自治体がやっている賭博は合法である。競馬や競輪、競艇、或いはサッカーくじだけではなく私設胴元を公認制にして何でもやらせれば良い。英国のブックメーカーを、免許制にして日本にも認めれば良い。カジノも公認すれば裏カジノも無くなる。非合法の裏カジノが、公然と六本木辺りで営業している事の方が余程異常である。賭博には人間の本能をくすぐる何かがあるから、幾ら取り締まっても根絶は不可能だと思う。それならいっその事公認制にした方が、今回の大相撲会を揺るがしているような不自然な大事件は起きないと思うのである。
 暴論と怒られそうだが、実は売春防止法にも僕は根本的には同じ思想を持っている。幾ら取り締まっても所詮は到る処で生業として成り立っているのだから、非合法にする意味が全くないではないか。それが現実であれば、むしろ合法的にしておいて色々と規制を加えて環境汚染や青少年への悪影響、悪質な病気の蔓延を防ぐ方が余程現実的であると思っている。それでも売春の合法化には異論が多過ぎて政治家も誰も触りたがらないであろうが、それに比べれば博打の解禁にはそれ程の抵抗はないのではなかろうか。野球でも相撲でもボクシングでもルーレットでもバカラでも何でも彼でも、好きな人はどうぞご自由に、その代わり幾ら負けても責任は自分で取りなさいと思うのである。