baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 全共闘世代

 良く60年安保闘争の世代、と言われる世代がある。1960年当時大学生であった世代である。当時は日米安保条約改定の時で、折からの共産党の元気な時と重なって、学生運動が大変盛り上がった時期である。学生と警官隊が激突して、樺美智子さんが羽田で犠牲になったりして、益々学生が激昂した。この年代の人は、今丁度古希の前後の人である。
 これに対して僕は学生時代に全共闘時代を潜りぬけて来た。全共闘運動の象徴は東大の安田講堂事件である。安田講堂に立て篭もった全共闘の活動家を機動隊が放水しながら強硬突入し、警官隊に犠牲者が出た事件である。当時の学生は無茶苦茶であった。釘を打ったゲバ棒と称する武器や鉄パイプをやみくもに振り回したり、高層ビルの校舎の屋上からレンガや火炎瓶を投げたり、未必の殺人行為を平気でやっていた。安田講堂が落ちたのが1970年の正月であったと思うから、その時期に学生であった者が全共闘世代である。
 折からお隣の中国では紅衛兵が闊歩する文化大革命全盛期である。文革毛沢東がその末期に、揺らぎ始めた自己の足場を固め直す為に若者を扇動して、力を付け始めた知識人や政敵を屠った時期である。紅衛兵は知識人、文化人、資産家を端から捕まえて大衆の前に引き出し、自己批判を迫り殺戮した。僕の知っている、僕より少し若い中国人は、母親は日本人という理由で、父親は医者か何かという知識人階級に属していた為に、二人とも紅衛兵に拉致され二度と帰らぬ人になった。自分と姉は親に裏山に逃がされ、それから一年位は他人の畑から野菜を盗んだり野生動物を捕まえ、時には近隣の親切な人達に食事をこっそり分け与えられて生き延びたと言う、普段は絶対に触れない話をある時突然してくれた。実際、この時期に毛沢東の政敵が何千人と抹殺されたそうである。我が全共闘もまるで紅衛兵気取りで、批判的な教師を捕まえては夜も寝かせず講堂に引き据えて何十時間も自己批判を迫り、我々仲間の学生でも全共闘を批判する学生には同じ拷問を加えていた。何しろ暴力革命を標榜するぐらいだから、警察をも恐れず武器を持ち、数を恃んで他人の話には一切耳を貸さない暴力集団であった。
 仙石由人は学生時代は全共闘派であったと聞く。全共闘はとにかく共産主義にカブれていて、日本の国体を否定して、暴力革命を起こす事を標榜していたから、最大の障害は自衛隊であり、当面の敵は機動隊であった。何時も目の前にいて、常に脅かされる機動隊は国家権力の象徴であり、野蛮な暴力組織、国家の犬、であった。興奮し易い仙石由人はそんな時代の事を想い出して、思わず口走ってしまったのであろう、「自衛隊と言う暴力組織」と。何と言う暴言であろうか。日本と言う国体を護るべき政府の中枢にいる人物の発言とは信じられない。失言であったと言うが、通常の人間の発想には出て来ない言葉であり、仙石由人の思想の根底には未だ左翼活動家であった時代の思想が流れているようである。菅直人が学生時代に何をしていたのかは知らないが、慶応だから大した学生運動はなかったであろう。彼の政治家としてのキャリアは市川房江と言う社会党の代議士の手伝いから始まったと聞く。だから菅直人も元々は左翼系だった訳である。そんな菅−仙石政権であれば、中国に阿って尖閣沖のビデオを公開しないとか、外国人に参政権を与えるとか言い出しても辻褄が合う。
 話が飛んだが、そんな訳で僕の学生時代は学校が真っ二つに二分されてしまった時代である。そしてキャンパスは全共闘バリケードを積んでロックアウトしてしまったから、彼等の眼鏡に適う者しか入れなくなってしまった。それでも僕等はロックアウトされたあとも暫くは、学内の部室を使い、オーケストラの練習を続けていた。僕はオーケストラをやっていたのである。しかしほどなくオーケストラはプチブルの象徴だと敵対視され始めた。僕等は皆、安物とは言え楽器を持っているので、全共闘という正真正銘の暴力集団に暴行でもされると被害甚大と、練習場所を上野の文化会館などに移してしまった。
 部活は別であったが、それ以外の友達は全共闘か非全共闘かに二分されてしまって、全共闘派はキャンパス内で集団行動をしているが、非全共闘は一部の代々木系を別にすればほぼ全員ノンポリで、行く場所もないので皆アルバイトなどしながらブラブラしていた。そんな時期が僕の場合は後期に入って直ぐからほぼ二年も続き、学校が再開されたら数ヶ月で2年分の単位を詰め込まれて追い出されたから、残念ながら僕にはオーケストラの友人を別にすると、大学時代の友人と言うのはほんの例外の数人を除いては、殆どいないのである。寂しい事ではある。
 当時の僕はと言えば、自己批判の恐怖を考えればやむを得ないとは思うのだが、それでも授業はしない、機動隊を導入するでもない教授達に痺れが切れて、友人数人と語り合って「授業再開促進会議」と言う、一目瞭然の団体を作って署名活動を始めた。そしてある程度署名が集まった段階で、学長に署名簿を手渡し、もう学校には失望したから早く授業を始めて僕等を卒業させてくれ、と嘆願した。学長は「そういう学生が出て来るのを待っていた」などと調子の良い事を言っていたが、それから程なく機動隊が導入され、あっと言う間に僕の学校の全共闘は一掃されてしまった。時期的にも、安田講堂が落ちる時期と重なるし、そろそろ全共闘運動の終焉の時期であったのだ。
 話は前後するが、僕は「授業再開促進会議」の議長に納まった時から全共闘に目の敵にされ、見付かると「殺せっ」と鉄パイプ、ヘルメットにタオルで顔を隠した全共闘に追いかけ回され始める羽目になった。別に新聞発表した訳でもないのに、全国紙に「授業再開促進会議」と言う良識派の学生の団体が組織された、という記事が出てしまったのである。学校の屋上からレンガが降って来た事もあれば、鉄パイプで素頭を殴られた事もある。幸い石頭なので大過なかったが、結構恐かった。そんな時期に、三島由紀夫の盾の会に入っていた仲間がある日、盾の会の制服に抜き身の日本刀を持って単身キャンパスに入り込み、構内を一回り練り歩いて、文句を言って来た全共闘数人を自己批判させて、傷一つ負わずに出て来た事があった。立て看板を数枚壊して来たとも言う。全共闘も腹の据わった暴力団まがいの男には弱いものだと思った。
 とにかく特異な学生時代であった事は間違いない。今、学生時代の友人が少ないのも確かである。しかし、貴重な体験であったのかも知れないと思う。人生、その時その時を精一杯生きていれば、無駄な時間など無いと言う証かもしれない。勉強は出来なかったが、代わりに中々得られない経験をしたと思っている。