baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 少年に死刑判決を下した裁判員

 仙台地裁裁判員裁判で、犯行当時18歳7カ月だった少年が石巻で二人を殺害し一人に重傷を負わせた事件に対して死刑判決が下された。僕が最も恐れていたケースで、僕が裁判員に選任されていなくて本当に良かったと思う。
 以前にも書いたが、僕は死刑に根本的に反対なのである。繰り返しになるが、死刑囚の人権が問題なのではなくて、真っ当な人間が間接的であれ他人の命を絶つ事を決め、そして幾ら法を守る仕事とはいえ真っ当な人々が、刑の執行に直接手を下し、それに立ち会い、そして死亡を確認しなければならない事が余りにも非人間的だと思うからである。
 現に、先般の刑場の報道陣への公開で分かった事だが、誰がやったか分からないように三人の刑務官が同時に執行のレバーを引くようになっている。刑務官と雖も、刑の執行をしたのが自分だと言う事が分かるのは精神的に非常な苦痛であると言う事だ。知りたくないのだ。銃殺でも、誰の鉄砲の弾が当たったか分からないように空砲が入れてあると聞く。プロでもそれ程後味の悪い、厭な仕事な訳である。立ち会いにしても、安らかに天寿を全うするのを見守るのではなく、人間が人間の命を奪い、奪われる方は断末魔の苦悶を呈する処を見聞する訳であるから、馴れる筈もなく、正常な神経で居られる筈が無い。
 ましてや、一般の裁判員にとっては、法を守らねばならない責任感と、人間としての当然の感情の板挟みで、とてつもない苦痛を味わわされる事であろう。いやでも被告人の最後を想像し、その度に身の毛もよだつであろう。現実に見る訳ではなくとも、頭から袋を被せられ、手を縛られた被告人の足下が開き、一階下の部屋に首からロープでぶら下がり全身が痙攣する姿は、一生悪夢として付き纏うであろう。
 実際、判決後に記者会見に応じた二人の裁判員はそれぞれ「一生悩み続けると思う」「やりたくなかった」「(判決を)出すのが怖かった。泣いてしまった。」「悩む時間が多く自分がどうして良いのか分からなくなった。死刑がこんなに重いとは思わなかった」などと発言し、判決が言い渡された時の事を想い出すと言葉が詰まってしまったと言う。普通の神経の人なら当然の反応で、何とも気の毒な経験をさせられたとしか言い様がない。当人達が言っているように、恐らくこれから一生「他人の命を奪った」事を引きずらざるを得まい。増してや相手は、身体は一人前でも精神は人によっては未だ成熟し切っていない未成年だったのである。
 一方で、被害者の遺族の気持ちは想像に難くない。この事件は未だ最近の事件で僕も良く覚えているが、初めから殺人を意図して、別段逃げ隠れする工夫もせずに犯行に及んだ、極めて短絡的で凶悪な犯罪であった。僕は当時犯人の少年に、精神が大人になり切っていない、子供じみた凶暴さを感じたものである。被害者側は事前に警察にも相談していたが、警察が保護し切れなかった事件だったと記憶する。余りに一方的な凶悪犯罪であったが為に、被害者の遺族、特に被害者の家に来ていて道連れになった少女の遺族の胸中などは尚の事、厳罰を望むであろう事は想像に難くない。
 死刑適用には「更生の可能性」や「犯罪性向」なども考慮されると言う。つまり現行法では、死刑でなければ何れ社会に復帰する事が前提になる訳である。僕が何時も主張するように、現行法はここが根本的に誤っていると思う。死刑と有期刑、現在の無期懲役も有期刑の範疇に含まれる訳だが、との間に文字通りの無期刑を置くべきだと思うのである。恩赦の対象にもならずに絶対に娑婆には出て来られず、一生を刑務所で、それも有期刑の受刑者とは一線を画した厳しい監督の下で死ぬまで働かせる事がはっきりすれば、どんなに凶悪な犯罪者であれ、或いは再犯が危惧される犯罪者であれ、二度と社会に迷惑を掛ける惧れは無くなる。二度と普通の市民生活が送れず、一生不便な生活を強いられるとなれば、遺族の被害感情も多少は救われるのではなかろうか。同時に、誤審で無実の人間を殺害するリスクも無くなる。
 何れにしても、裁判員の記者会見は気の毒の一語に尽きる内容である。少なくとも、望んで法曹界に入った訳でもない一般人には、責任が重過ぎると思う。現行の刑法を一刻も早く改正すべきだと改めて強く思うのである。