baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 宮本文昭の演奏会を聴く

 今日は宮本文昭のコンサートを聴きに行った。宮本は元々はオーボエ吹きなのだが、数年前にオーボエを捨てて俄か指揮者に転向したクラシック音楽家である。彼はその理由を男の美学と称しているようである。彼が再来年から音楽監督を務める東京シティフィルの棒を振る、と言うのでどんな棒かと聴きに行った。結果は残念ながら、増長して世間を軽んじている市川海老蔵に通ずる軽薄さを感じるのみであった。
 何故ならその指揮ぶりは、お世辞にも棒と言えるものではなかったのである。大体ここと言う処で、オケの頭が合わない。棒がオケを追っかけているから、頭が合う筈が無い。日頃弾き馴れている音楽とは言え、ここと言う処で棒が頭を叩いてくれなければ、幾らプロのオケと雖も微妙にずれてしまう。増してや楽器間の音のバランスとなると、もう野放図としか言い様が無い。オケと言う楽器を奏でる棒が、数年前に転向したばかりの素人棒では流石にオケを纏めるのが無理であったのも当然であろう。宮本の音楽に触れる前に、余りの棒の酷さに吐き気を催し、空虚な棒を振り回すオーバーアクションに眩暈を感じ、棒を無視して淡々と演奏するオケに同情しながら我慢して大人しくしていた2時間であった。余程休憩で帰ろうかと思ったが、休憩前はコンチェルトであったので、休憩後のシンフォニーも一応聴いて見ようと言う好奇心が仇になった。そんな素人芸を入場料を取って聴かせようと言う宮本に、男の美学は逆さに振っても当て嵌まらない。
 ところが、そんなに酷い演奏、と言うよりは猿芝居のようなボディアクションだけの棒であったのに、周囲のファンと思しき、特に女性の反応は信じられない程好意的であった。これが現在の日本のクラシック音楽界の現実なのであると改めて認識した。軽薄短小な、音楽を聴く耳なぞは初めから持たずに、単に宮本昭文の追っかけなのである。宮本の、小沢征爾そっくりのボディアクションに陶酔しているだけなのである。どうしてあそこまで興奮できるのかと信じられない思いの「ブラボー」の連呼であった。それでもオケの経営上は、公演に客が入る方が良いに決まっている。所詮はファンを囲っている者が勝者なのであろう。演奏会終了後の宮本のファンサービス振りがそれを物語っていた。後味の苦い演奏会であった。そして、改めて昨今の日本の軽薄な風潮に胸が痛むのである。