baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 いじめ、自殺、そして訴訟

 群馬県の小学6年生の少女が暫く前に自殺した。その裏には学校でのいじめがあったと言う。早速市の教育委員会が調査をし、いじめの事実はあったがそれが直接自殺の原因とは断定できない、という調査結果を公表した。それを受けて両親が、いじめが原因で自殺したと主張し、テレビのインタビューにも出て来て怒りを露わにしていたが、今般その両親が市や県を相手取って損害賠償訴訟を起こすそうである。
 昨今の学校でのいじめは相当陰湿で酷いと聞く。僕等の頃にも厭な事は色々あったが、陰湿ないじめはなかったように思う。いじめられっ子はいたし、区立の中学校に上がってからは学内でカツアゲなどもある事はあった。僕も中学生の時にプールの更衣室で先輩にカツアゲされ、断ったらぶん殴られた事がある。相手は世に言う不良であったし、多勢に無勢であったから喧嘩にならない。やられっ放しであったが、それで死のうと思った事もないし、最後まで断ったからだからかどうか、二度とカツアゲはされなかった。それ以来一目置かれたようであった。そういう仁義が未だ残っていたように思う。
 昔は先生や親に絶対的な権威があった。大人になってから思えば良い先生、それ程でもない先生がいたが、僕等が子供の頃はそういう値踏みは許されずに先生は常に絶対であった。増してや親に口答えでもしようものなら、酷く叱られた。経験や知識が豊富な親や先生が子供に対して絶対的に偉かったのである。だからカツアゲやいじめも最後には先生に相談するか親に相談出来ると言う、究極の逃げ場があった。そういう保険があったから、先輩にぶん殴られても親にも先生にも告げ口せずに男らしく一人で頑張った。親や先生は絶対であったから、逆に次元の低い事に巻き込んだら恥ずかしいという思いもあった。子供心にもそういう問答無用の権威だったものが、戦後の民主教育という名の下に消えてしまった。親も先生も子供も同列になってしまった。「日本人今昔」に書いたようにこの頽廃の責任は日教組の責に帰すべきところ大である。
 子供に、しかも小学生に自殺された親の内心はどれ程辛いものか、想像もつかないだけに同情も一入である。しかし同時に、だから損害賠償訴訟というのにも何か馴染まない。僕は本件で訴訟する親をここで特別に弾劾する積もりはないが、話が具体的なだけにそう取られても仕方が無い。しかし、僕は今回のケースを例として、敢えて一般論で意見を述べたいと思う。
 いたいけな少女が自殺にまで追い込まれた背景には、いじめが無関係であったとは思えない。両親が主張するように、いじめが主たる原因であった可能性は大いにあると思う。勿論、彼女が他にどんな悩みを懐いていたか知る由もないから、市教委ではないがそうと断言はできない。しかし、仮にいじめが主原因であったとしよう。そうであるなら、自殺の責任は市と学校にあり、損害賠償に値するのであろうか。その理論では、家庭の位置づけは如何なっているのであろうか。
 子供が死ぬほど悩んだら、やはり最後に相談するのは、或いは逃げ場を求めるのは肉親であり、親ではなかろうか。一番頼りになる親が救えなかった少女の魂を、どうして学校の先生や市教委が救えたであろうか。にも拘らず市と学校に、短絡的に損害賠償を請求する親の気持ちが僕には理解出来ない。そういう親だから、子供に対する子育ての責任感も薄弱であれば、子供が死ぬほど悩んでいても気が付かない、相談相手になれなかったのではないか。そんなだからこそ自分たちの責任は棚に上げて、子供の自殺を市や学校の責任に帰し、訴訟して金を要求する事が出来るのではないか。つまり、その少女の家庭は、実質は既に崩壊していたのであると思う。少女にしてみれば、家は崩壊しており、学校ではいじめられる、相談の持って行き場もない、そんな心境だったのではなかろうか。
 今の日本は、政治も、教育も崩壊してしまい、崩壊している家庭も決して少なくないという実例を突き付けられているようである。僕達はその現実を真摯に受け止めて、もう一度一人一人が日本の立て直しを図らねばならない時期なのであろう。結局は僕達大人が、自信を持って子供たちを躾け、子供たちの範とならなければならない。夫婦がしっかり役割を分担して、大らかな家庭を築かなければならない。そして子供たちの悩みには大人が真剣に相談に乗り、困りごとには手を差し伸べてやらなければいけない。何よりも子供たちが悩んだ時、困った時に躊躇なく相談できる環境、一義的には親子関係を整えなければいけない。
 その根本は、親、先生、年長者の絶対的権威、問答無用の権威の再確立だと思う。そして、僕達一人一人のそう言う日頃の努力で、少しでも日本をより良い方向に向けるしかないのだと思う。そう言えば、一昨日の夜の郊外電車で、やはり随分と混雑していたのだが、余りに行儀悪く足を組んでいた若者が目に余ったので注意をしたら、外見とは裏腹に思いの外素直に改めてくれた。恐らく今迄あまりちゃんと躾けられた経験がなかったのであろう。言えば直ぐに気が付いて改めてくれた。日本も未だ捨てたものではないと、少し嬉しかった。