baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 大相撲の八百長

 また大相撲バッシングである。野球賭博問題が下火になり、可笑しな番付も元通りに戻り、この初場所はやっと何時も通りの本場所になったと思った矢先である。一体どうなってしまったのか。
 八百長と面と向かって言われれば、こちらとしても面白い筈がない。元々、千秋楽が近付けば如何にも八百長臭い相撲はあった。星取表から、どちらが勝ちそうだと言う予想が付く取り組みがあり、勝敗は予想通りになるのである。例えば7勝7敗の力士が、既に勝ち越しか負け越しが決まっているけれども優勝争いや三賞には関係のない力士に当たり、千秋楽にやっと勝ち越すパターンだとか、ここでこの力士が負けてしまうと残りの場所が面白くなくなると言う取り組みだと、相撲協会の思惑通りに負けて欲しくない力士が勝つ、という勝負である。しかし、プロの一対一の勝負であるから、あってはならない事ではあっても実際には充分あり得る、と言う事は大人なら何となく察していたと思う。昔から「こんちは相撲」と言う言葉があった程である。大方の相撲ファンにとっては、興味に水を差すような、下手な八百長だけはしないで欲しい、やるなら分からないようにやって欲しい、聞きたくもない、と言う事であったろう。そして実際、素人が見てもそれと分かるような下手なこんちは相撲はなかったと思う。
 相撲にトトカルチョなどがあって、暴力団の資金源になるような八百長であれば立派な犯罪であるが、相撲には大っぴらにそういう賭博は無いので、今回の八百長の発覚は犯罪にはならないらしい。そうであれば尚更、聞きたくもない話であった。面と向かって意見を問われれば「とんでもない。許せない。ファンへの裏切りである」としか言いようがないのは誰でも同じであろう。しかし内心は「知りたくもなかった」、と言うのが本音ではなかろうか。
 それよりも僕には、今回の事件で許せないのは警察であり、警察庁であり、文科省である。そして、鬼の首を獲ったように大騒ぎをするメディアである。元々警察は、野球賭博を捜査する為に任意提出を受けた力士の携帯電話から、消去された過去のメールを復元して八百長の証拠を見つけたものらしい。そうであれば本来の捜査とは無関係なのだから、八百長事件を公にする事はなかったであろう。相撲協会の幹部に内々に通報すれば済む話であった。それをわざわざ警察庁に相談した。警察庁とて、相撲協会に通報して善処を求めれば良いのは同じであるのに、今度は文科省に通報した。バカな民主党高木義明が大臣をしている文科省では、事を公にしてしまった。それどころか、事と次第によっては公益法人の資格を剥奪すると息巻いている。まるで優等生の小学生である。
 どうして自分の腹に納めて事を解決しようとする、腹のある官僚がいないのであろうか。別に犯罪を隠蔽糊塗しろと言っている訳ではない。これが明治時代なら、「事を公にするは無用でごわす、徒な混乱は避けもそう。相撲協会には、二度と不祥事を起こさぬようしっかり釘を刺しておいてつかあさい。全ての責任はおはんが取り申す。」と言う男が必ず居た筈である。それが今は、情報開示という名の下に、世間が知らなくても良い事までベラベラと何でも表沙汰にしてしまう。官僚の自己保身と事無かれ主義、無責任以外の何物でもない。日本人の武士の情は何処へ行ってしまったのであろう。そして、その尻馬に乗って大騒ぎをするマスコミである。力士の八百長など、日本中が大騒ぎをする程のレベルの高い大事件ではあるまい。
 僕は決して八百長を庇っているのではない。八百長は勝負の世界にはあってはならない、スポーツマンシップに悖る、許されざる卑劣な行為であると思っている。今回証拠が出て来たからには、相撲協会には徹底的にその根絶を図って欲しい。しかし、なんでもかでも公にして大騒ぎをする最近の日本の風潮には反吐が出る。一億総白痴と言われた時代があったが、今は一億総野次馬時代なのであろうか。でも僕は、この風潮の根底には、野次馬根性とは相容れないものを感じる。僕にもしかとは分からないのだが、日本人の心が痩せて来た、或いは日本人に懐が無くなった結果の風潮のように思えるのである。僕には相撲の八百長などよりも、心が貧しくなった日本人を目の当たりにして、酷く寒々しく感じるのである。