baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 人生最大のピンチ

 今日は終日忙しく、その上昼間からビールやワインを浴びて、勿論そのまま夜までなのだが、その上ホテルのインターネットの具合が悪くて、恐らく泊り客が全員ネットを使い始めると上りも下りもパンクしてしまうのだと思うが、もう酔っ払ったまま寝ようかと思ったら急にネットが繋がった。一旦睡眠モードに入ってから急に何か書けと迫られると、酔った頭には何も浮かばない。昼間、あっ、今日はこんな事を書こうかなと思った事が何一つ思い出せない。そこで、今日は今週のお題で行く事にした。仕事でピンチは幾らでも潜り抜けているのだが、そんな話は面白くも何ともない。そこで少し古い話だが、バイクで事故った時の事を書こう。
 もう8年ほど前になる。遊びでバリに行き、ハーレーをレンタルした。未だ大型免許取り立てで、バイクに乗れるのが嬉しくて仕方がない時である。バリ島は、リゾート地は南の方から中部の山間部の南側辺りに集中していて、その辺だけウロウロしている分にはそれ程大きな島ではないが、全体はそこそこの島である。バイクで走り回っても、一日では到底回り切れない。観光地なので全般に道は比較的整備されていて、島の中央には山脈が走っているので峠道にも事欠かず、言葉に不自由しなければバイクで遊ぶには中々の島である。
 ハーレーで三日間、色々な道を走り回り、島の東海岸も北海岸も、西はジャワ島の対岸まで走り、山間部を抜ける峠道も全部制覇して、すっかり堪能した三日目の夕方、山からバンリという村に下りてきた。山で小雨に降られ、寒くて実は結構消耗していた。バリ島と雖も天候次第では山の上は寒くなる。インドネシアに長い事住んでいて、心底寒かったのはブロモ山で朝日を拝んだ時と、この時位である。慣れないハーレー、それも米国仕様そのままだからリアブレーキもギアーも足を目一杯伸ばして、更に腰も少し動かさないと169cmの僕には届かない。クラッチもフロントブレーキも指の第一関節が辛うじて掛かる位にレバーが離れている、そんな大作りのバイクで平地に下りてきて、少し油断したところに突然犬が飛び出してきた。バリの野犬は獰猛で、バイクでも怖がるどころか吠えながら追いかけてきて噛み付こうとする位なのだが、運悪くそんな犬に出くわしてしまった。慌ててブレーキを踏もうと思ったのだが、慣れない、自動車のブレーキみたいなブレーキだったので足でペダルを探してしまった。クラクションを鳴らそうと思ったが、殆ど使わないからいざという時にこれも場所が分からない。普段乗っているバイクみたいに、左手の親指を伸ばせば触れる処にボタンが付いているわけではなく、手をハンドルから少し滑らさないと届かない処にボタンがあったのである。そんなこんなでモタモタと、と言ってもほんの一瞬、0点何秒かの事なのだが、何も出来ぬうちに前輪ブレーキだけ掛けたまま犬に当たってしまった。たかが犬一匹なのだが、僕はバイクから放り投げられ、バイクは後輪を持ち上げてすっ飛んでしまった。犬は何処かに走り去ったが、恐らくお陀仏になったと思う。
 運良く対向車はなく、すっとんだバイクも街路樹に当たって跳ね返ってくれたので、通行人にも怪我はなかった。ここからは以前のブログと重複するので詳細は省くが、簡単に説明すれば、激痛にのた打ち回る僕は、誰かが呼んでくれた警察のピックアップの荷台に放り上げられてバンリの病院に連れて行かれた。しかしそこにはレントゲンが無いと言うことでデンパサールの大きい病院まで、自分で雇った救急車で移送された。デンパサールの病院では左の肩甲骨が割れている事が判明したが、左腕を三角巾で吊ってくれただけでそれ以上何をしてくれるでもない。医者の第一声は「貴方は運が良い。こんな怪我では絶対に死にはしない。去年の爆弾テロ騒ぎの時には、ここに運ばれてきた人は、病院に着いたときには殆どもう死んでいた」なのであった。そして安静にしていなさい、と言われただけであった。
 そのままタクシーでホテルに戻り、車椅子で部屋まで運んで貰って、一晩痛みで呻いていた。翌朝一番に始めた事は、壊れたバイクの後始末の手配とバイク屋への弁償、そして日本の病院の入院予約と帰りの日航機の予約である。寝返りも打てない、左半身不随の身体で、あちらこちらに電話をしまくって何とか全て手配した。とにかく頑張って一日でも早く日本の病院に行かねば、という思いだけであった。そのとき日航には車椅子を用意して欲しいと頼んだ。日航は、車椅子は用意するがトイレに一人で行けるか、との質問。歩くことも出来ないし、両手で身体を支える事もできないから、正直に無理だと答えたら、それではお乗せ出来ません、介護の方が必要です、と言う。介護と言っても一人なのだから、どうしてくれる、と押し問答の末、それではトイレには絶対に行かない、と約束して強引に乗せて貰う事に成功した。なので、夜行便に乗るのに夕方6時から水断ちをして、それでも万が一の時の為にミネラルウォ−ターの空ボトルをそっと手荷物に忍ばせて、ほうほうの体で日本に逃げ帰った。幸い空ボトルは使わずに済んだ。
 あのままインドネシアの医者のいう事を聞いて、無理を押して日本に戻らなかったら、間違いなく今頃は左足の親指は関節が動かなくなっていたし、左膝は具合が悪いままで、もう走るどころか早足で歩くことさえ出来なくなっていたろう。左腕は少し不自由になり、バイクは左足で支えられないから、これももう乗れなくなっていたろう。正しく大ピンチなのであった。日本で僕を診察した女医の第一声は「こんな身体でよく一人で帰って来られましたね。信じられない」だった。所変われば第一声はこんなにも変わるのである。