baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 検察改革

 先程のNHKクローズアップ現代で、検察改革について放送していた。僕は以前から検察改革について持論があるので、ここでちょっと僕の考えを述べてみたい。
 足利事件の冤罪、或いは厚労省の村木局長の冤罪とその捜査段階における証拠捏造等々、度重なる警察や検察の不祥事でここのところ検察改革についての議論が喧しい。その中心的な意見が、供述調書に到るまでの取り調べの可視化である。取り調べを可視化すべきという意見は以前から人権派と自負する弁護士などから上げられていた。しかし、僕は元々は行き過ぎた人権擁護には反対で、従い取り調べの可視化にも反対であった。例えば知能の高い被疑者には、恫喝や精神的に多少苦痛を与えなければ自白は得られないと思うからである。勿論疑わしきは罰せずという原則は良しとするのだが、余り被疑者の人権を擁護する余りに犯罪人に一方的に有利になる制度には反対だったのである。しかし、警察官による恫喝を超えた脅迫や、検察官による証拠捏造まで表沙汰になると、そう呑気な事も言っていられなくなる。検察官や警察官も所詮は人間であるから皆が皆聖人君主である筈がないので、よくよく考えて見れば検察官や警察官が正義と節度を忘れてしまえば、第三者の人生が取り返しのつかないほど大きく狂ってしまいかねない。となると、やはり後から検証出来る制度も悪くないと最近は思い始めている。但し条件付きである。
 条件とは、単に可視化するだけでは片手落ちで、取調室における恫喝や言葉の綾を何処まで認めるかを、明確にしておくべきであると言う事である。取り調べ室で許容される範囲を明文化して、恫喝や机を叩く程度は当然許容範囲内、一日の取り調べも15時間位までは可、等々のルールを作らなければならないと思う。折角調書が取れても、後から法廷でなんでもかでもやれ恫喝だ、やれ誘導だ、と屁理屈をつけて検察調書を無効にするようでは困るのである。その好例が小沢一郎の元秘書の裁判である。一旦は自白し供述調書も認めたのに、いざ公判になったら四の五の難癖をつけて無罪主張である。馬鹿な検察官が一時関わった事も検察には大打撃になっている。とにかく、行き過ぎた人権擁護は、斯くの如く犯罪人を不必要に擁護してしまう。更には、人権派と称する弁護士には、得てして人権の名の下に国家権力に対抗する事を目的とする似非弁護士が紛れているから、要注意なのである。
 人権派弁護士がいかにも言いそうな、絶対に恫喝してはいけないだとか、机を叩いて怒鳴りつけて得た調書は無効である等の、取調官の手足を縛る事は明らかに行き過ぎである。被疑者を落とすにはある程度責める事も必要である。それが厭なら善良な市民は李下に冠を正さずで、被疑者にならなければ良い。それでも不運にも一旦被疑者になってしまったら、仮にそれが冤罪であれば尚の事、覚悟を決めて潔白を主張し続けるしかない。取り調べ側からは長時間の取り調べや、恫喝、罵詈雑言もあるかも知れないが、無実なら頑張るしかない。
 逆に僕が恐れるのは、取り調べを可視化するなら欧米式の捜査方法、即ち囮捜査や電話の盗聴、通信傍受、などをもっと自由にしなければいけないという意見がある事である。捜査側に言わせれば、捜査が可視化されて恫喝や、あの手この手で被疑者を落とす事が難しくなれば、他の方法を導入しない限り検挙率が大幅に下がると言うのである。僕はその部分は正にその通りであろうかと思う。しかしだからと言って、私生活を無断で覗かれる様な通信傍受や電話の盗聴は、それこそ特高の再来のようで薄気味が悪い。或いは囮捜査が大っぴらに許されれば、囮になる捜査官次第では取り調べ室の中よりも遥かに確実に冤罪が作れてしまうのではないか。昔テレビ映画に「タイトロープ」という囮捜査官のシリーズ物があり、僕の好きな番組であったが、テレビで見ている分には構わない。しかし実際に人間の心の弱い部分に入り込んで犯罪に誘う様な捜査方法は、卑怯の誹りを免れず僕には同意出来ない。
 纏めると今の僕の意見は、取り調べ室の可視化は積極的に賛成ではないが已むを得ないと思う、しかし可視化するからには電話や通信の傍受や囮捜査は原則認めない、一方取調室の中でのルールは明文化し、被疑者に対するある程度の恫喝や罵詈雑言、長時間取り調べは取り調べの方策として認められなければならない、人権擁護に偏る余りに被疑者に一方的に有利になるような規制はしてはならない、と言う事になるだろう。読者諸氏はどんなご意見であろうか?