baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ニィ・ロロ・キドゥルその後

 先月、ニィ・ロロ・キドゥルというお化けのお伽話の本を買った話を書いた。その本をほぼ読み終わったのだが、僕は色々誤解をしていたようである。
 先ず、本屋では本が立ち読み出来ないようにプラスチックフィルムで包んであるので中身が分からずに買った。先日それを開けてみたら、お伽話の本ではなくて、ニィ・ロロ・キドゥルについて歴史的な考証を加え、色々な地域で聞き取り調査をしたりしてその真実に迫ろうという本であった。170ページと言うのは、お伽話にしては少し長いな、と思ったのは然もありなんであったのだ。
 次に、ニィ・ロロ・キドゥルはこの本の著者によれば決してお伽話ではなく、実在の人物の話が語り継がれたもので、伝説と言うのが正しい様である。著者は本業はジャーナリストで、色々な資料を漁り、実地調査を経て書きあげた物と言う触れ込みである。もっともそこからフィクションであるなら、何をか況やであるけれど。
 種になるニィ・ロロ・キドゥルの話は中部ジャワのジョクジャカルタ辺りに発祥する、あらまし以下の如き話であるようだ。

 16世紀に中部ジャワを統治していたマタラム王国の、ムンディン・ワンギというスルタンにカディタと言う世にも美しいお姫様がいた。その余りの美貌は比肩する者とてなく、世間では太陽姫と呼ばれていた。素直で正直な良いお姫様だったので、王様も殊の外可愛がっていた。カディタ姫の母親のお妃も、世にも美人であったのだが悲しいかな男の子に恵まれなかった。
 ムンディン・ワンギはお妃をそれはそれは慈しんでいたが、後継ぎが生まれないのでついにデウィ・ムティアラという側室を娶った。ほどなくして、幸いデウィ・ムティアラには男の子が生まれた。ところが、デウィ・ムティアラは自分の子に王国を継がせたいが余りに、色々策を練ったがどうしても一つだけ不安の種が払拭出来ない。それは、余りにも美しく、人柄のよいカディタ姫の存在であった。
 そこで、デウィ・ムティアラはスルタンにカディタ姫を何処か遠くへ追いやってしまうように諫言した。しかしスルタンは愛しい姫を遠くへ追いやるなど考えも付かず、即座に却下した。その場は何とか取り繕ったデウィ・ムティアラであったが、不安は益々募る。
 そこで次に考えたのが、高名なドゥクンを使って姫を病気にする事であった。早速マタラム王国随一のドゥクンがお城に呼ばれ、法外なご褒美と引き換えにカディタ姫を病気にするよう命じられた。その黒魔術の呪いが効いて、姫は重い病気に罹り、その美しい顔も見る影もなくなってしまった。スルタンは嘆き悲しんだが、そこへまた継母デウィ・ムティアラが現れて、姫を遠くへ追いやる様に諫言し、王もついにその言葉に乗せられて姫を追放してしまう。
 継母の意地悪で従者一人とて付かず、何処へ行くとも当ての無い姫は、一人でとぼとぼと旅に出た。取り敢えずはジャワ島の南のインド洋に向かう事にした。海に辿りつくと、天気は何とも清々しく、海は抜けるように美しい。思わず病身である事も忘れて海で泳いでしまった。するとどうした事か、あれよあれよと言う間に病気は消えてしまい、醜くなっていた美貌が元に戻ったではないか。姫はすっかり嬉しくなって、そのままその場所に住みついてしまった。それ以来、人々は姫を海の守護神として崇め奉ったとさ。と、こんな話であった。

 ところが実は、この話には地方によりバリエーションが沢山あるのだそうである。そのバリエーションも幾つか紹介されている。中には、ニィ・ロロ・キドゥルは元々魔法使いで、自分の魔法を磨く為に緑の衣服を身につけてインド洋までやって来て、そこに住みついたという話もあるそうである。これがプラブハン・ラトゥという漁村に伝わっている話と符合するのかも知れない。また、ニィ・ロロ・キドゥルの出身部族も、ジャワであったりスマトラのバタックであったり諸説があると言う。だれでも、絶世の美女は自分達が出自だと自慢したいものと見える。これで、インドネシアの人達が誰もニィ・ロロ・キドゥルの話をしっかり出来なかった理由が分かった。知らなかったのではなく、余りに色々と異なる話があるので、外国人に詰問調で訪ねられるとどの話を教えたら良いのか分からなかったのであろう。
 この本によれば、ニィ・ロロ・キドゥルはお化けではなくインド洋、即ちジャワ島の南側の海の守護神と言うのが正しいようである。そして、ニィ・ロロ・キドゥルが現在に到るも未だ実在すると言う話が幾つか紹介されている。ニィ・ロロ・キドゥルの性格が余りはっきりしないので、これらの逸話にもあまり一貫性がないのだが、それが神秘的で魅力なのかも知れない。例えば1944年にインド洋で任務についていたドイツのU−197潜水艦が、突如行方不明になったが、不思議な事に船体も乗組員も一切痕跡がないまま消えてしまった。事故であれば必ず何がしかの漂流物などが出て来るものだが、U−ボートはきれいに消えてしまった。これはニィ・ロロ・キドゥルの成せる技であったとしか考えられない、と言う。或いは、実際にニィ・ロロ・キドゥルに遭ったという証言が載せられている。何れも、ニィ・ロロ・キドゥルは四頭立ての白い馬に挽かれた金の馬車に乗って海から出て来るようである。
 最後に、ジャワで語り継がれている、ニィ・ロロ・キドゥルの詩が載っている。67節から成る、長い長い詩である。しかも翻訳は付いているが、古来のジャワ語で綴られている。本来ジャワ語はアラビア語サンスクリット語の文字を使っていたので(僕にはその区別は付かない)右から左に書く象形文字のような文字である。流石に本書ではアルファベットに直して左から右に書いてあるが、全く意味不明なだけでなく発音も出来ない。翻訳を読む気力もなく、ここで投げ出した。
 とにかくはっきりした事は、ニィ・ロロ・キドゥルは伝説上の絶世の美女で、単なる創作ではない、そして絶世の美女は余りの美貌が故に他人の嫉みを買い、決して幸せにはなれない、という事である。それと、未だにジャワではニィ・ロロ・キドゥルは実在の人物であったと広く信じられており、宮廷を中心にニィ・ロロ・キドゥルに纏わる数々の行事が未だに営まれているそうである。特にソロの宮廷では、ニィ・ロロ・キドゥルが振り付けや衣装と装飾品を創作したと言い伝えられているクタワンと言う踊りが未だに原形を保ったまま継承されているそうである。