baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 気仙沼行き (2)

 今日は、友人の母親と妹がどのように命拾いしたのかを、もう少し詳しく述べよう。12日に書いたように、友人の母親と妹は地震の時は未だ無事であった。妹は釜石の眼医者に母親を連れて行く為に、地震の少し前に家を出たそうである。もしもう少し出るのが早くてもう釜石市内にいたなら、或いはもう少し遅くて未だ家にいたらどうなったか分からない。釜石市内は甚大な津波被害を受けたし、家は地震で潰れていたかも知れないのである。しかも高齢の母親は足が悪いので、もし家にいたら仮に家は地震では潰れなかったにしても津波からは逃げ切れなかった可能性が高い。しかもご丁寧に、その後は周囲一帯くまなく焼き尽くされている。
 それが運よく外に居た。気仙沼郊外の比較的海抜の高い山側を車で走っていた。其処へ震度7の大地震が襲った。あわてて車を止め、ラジオを点けると気仙沼には6mの大津波が来ると警報を発している。何だか良く分からないが海からは大分陸地側に入っている山の上だから、下手に動かない方が良いであろうと近くのスーパーの駐車場に車を入れた。そして津波をやり過ごす為に、スーパーでスナックを買った。実際避難所に向かう途中でその近くを走ったが、相当な高台で、且つ内陸なので海は全く見えない。ところが眼の下の田んぼには瓦礫や津波に運ばれた多数の車に混じって、何と12トントラックまでが横転していたのである。如何に津波が内陸奥深くまで侵入し、しかもその地域でも未だ相当な威力を持っていたかを身にしみて感じたものである。
 母親は外で食べたがったが、妹は特に確たる考えがあった訳ではないのだが、車内で食べようと母親を車内へ誘った。車内でスナックを食べ始めると、突然水が来るのが見えた。水を見て慌ててUターンする車があった。と思う間もなく、自分達が乗っている車が水に呑まれてあっと言う間に近くを流れている川に運ばれた。恐らくUターンした車も逃げられなかったであろうと言う。その位、あっと言う間の出来事であったそうである。
 激流に揉まれながら川の中を流れだした。車はクルクルと回りながらも、何とか転倒せずに水に浮いている。川には橋がある。橋桁に衝突すれば間違いなく一巻の終わりである。母親が後部座席で「橋桁に当たったらお陀仏だ、ナンマンダブ、橋桁に当たったらお陀仏だ、ナンマンダブ」と念仏を唱えているのが聞える。自分は懸命に右に左にハンドルを切って、少しでも車を安定させようと必死だったと言う。
 橋を三つ無事に潜り500mも流されたところで車は止まった。前部から浸水が始まって、車はボンネットの側から沈み始めている。ドアを開けようとしたが水圧が強くて勿論開けられない。何とかガラスを割ろうと、携帯電話で力一杯ガラスを叩いたが、ビクともしない。そうしている間にも水がどんどん侵入してくる。どうしようかと、途方に暮れているところに若い男の子が首まで胸に浸かりながら助けに来てくれた。彼が外から一生懸命ガラスを割ろうとしてくれた。しかしやはりガラスはびくともしない。そのうちに彼は何処かへ行ってしまった。
 その頃には水はもう腰まで上がって来た。「こりゃもうダメかも知れない」と思い始めた時に、さっきの男の子が若い衆を2〜3人連れて戻って来てくれた。その若い衆がリアウィンドウを割って、紐で母親を吊るし出して、そのまま背負って川岸まで運んでくれた。自分も割れたガラスで少し手を怪我したが無事に脱出を果たせた。本当に奇跡であった。
 そもそも津波の時には車の中に居た。そして転倒もせず、三つもあった橋の橋桁にもぶつからず、500mもの距離を車ごと無事に流された。止まった処を偶々近くにいた若い男の子が、中に人がいる事まで見付けて首まで水に浸かりながらも助けに来てくれた。その子が応援に連れて来た若い衆は、地震の後に見回りに来ていた自警団の若い衆で、偶々近くにいた。そして、それなりに道具も持参していた。これだけの偶然が一つでも欠けていたら、母親と妹は間違いなく山の上のお寺に運ばれていたであろう。紙一重の運であった。そんな劇的な話をケロッと話す友人の妹に、生死の境目を潜りぬけて来た人間の強さを感じたものである。

 盗み撮りした気仙沼市内の写真である。