baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ジャガタラお春とジャガ芋

 インドネシアは日本が未だ鎖国していた江戸時代にはジャガタラと呼ばれていた。当時のインドネシアはオランダの植民地であり、一方の日本は長崎の平戸の出島がオランダにだけは開放されていたので、鎖国時代もインドネシアとだけはオランダを介して交易があった事になる。長い付き合いなのである。日本では普通にじゃが芋と呼ばれている芋は、江戸時代にオランダ人がインドネシア産のじゃが芋を持ち込んだのが始まりである。当初はジャガタラから持ち込まれた芋だからジャガタラ芋と呼ばれていたのだが、いつの間にかそれが縮まってじゃが芋になったものだそうである。昔はジャガタラと言えばじゃが芋を指す事もあったようで、ジャガタラ和尚という頭がじゃが芋のようにデコボコの坊主を揶揄する言葉もあった。
 オランダの植民地時代のインドネシアは、勿論農園などはあちらこちらにあったのであろうが、居留地としては現在のジャカルタの極く北部の海沿いに限られていたようである。それと高地で涼しいバンドンやボゴールが、飛び地ながら保養地として開発されたようである。オランダの植民は350年に及ぶので、当初と20世紀に入ってからでは相当の隔たりがあろうが、ここで言う居留地は17〜18世紀頃の話である。その時代にオランダ人が居留していたジャカルタの北部地域は、当時はバタヴィアと呼ばれ、インドネシア語ではブタウィと言う。今でもその地域出身のインドネシア人はブタウィ人と呼ばれ、短気で言葉が荒いので日本で言えば江戸っ子のような印象である。同じくその頃のジャカルタの名称はジャヤカルタであったので、それが日本語でジャガタラに訛ったことは容易に想像が付く。ジャヤカルタがジャカルタになったのは20世紀も半ばになってからのようである。
 ジャガタラお春は江戸時代の悲話として有名な話であるから、ご存知の読者もおられよう。長崎でイタリア人の父親とクリスチャンの日本人の母親の間に1625年頃生まれたお春は、子供の頃から肌は透けるように白く、鼻筋は高く通り、大きな澄んだ目をしていたので飛び切りの別嬪として長崎ではつとに有名であったそうだ。ところが島原の乱の後、幕府がキリシタン取締りを厳しくし、1939年には第5次鎖国令を出して出島にいたポルトガル人とその妻子32人を国外追放にした。お春の父親はその時には既に死んでいたが、ポルトガル船の船乗りであったのでイタリア人ではなくポルトガル人として遇されたのであろう、当時未だ14歳とか15歳であったお春はその顔つきから混血である事は一目瞭然、逃れる術も無く洗礼名マリアとしか知られていない日本人の母親、姉のお万と共に、32名の一員としてジャガタラに追放された。
 その後ジャガタラと日本との間では、交易で行き来するオランダ船に手紙を託す事で細々と文通が続いていたらしい。その辺りからどこまでが事実でどこからがフィクションかは分からなくなるのだが、ジャガタラに追放された日本人が、故国を懐かしんで「日本恋しや、ゆかしや、見たや見たや」と張り裂けんばかりの望郷の想いを綴った手紙は、当時からジャガタラ文として知られていたようである。そして、少なくともジャカルタにはお春直筆の遺言状が残っている。ジャカルタの博物館に展示してある。残念ながら僕が行った時にはたまたま何処かへ貸し出されていて展示されてなかったので、僕自身は現物は未だ見た事はないが、僕の仕事仲間で、やはりインドネシアの歴史に興味のある日本人がお春の直筆墨署を見ている。日本を追放されてからは二度と祖国に戻る事なきまま遠い南洋の地で、果てぬ事無き日本への想いを胸に秘めたまま72歳の生涯を閉じた、歴史に翻弄された美貌の日本人女性の、儚い物語である。