baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 アルバイト

 数日前の新聞に、某経済界の大物が自分の若い頃を回想し、22種類ものアルバイトをしたと言う記事が載っていた。僕は幾つ位したであろうか、と指を折ってみたが精々9つ程度しか思い出せない。大した数ではないが、それでも幾つか面白い仕事を経験した。
 僕の実家は国家公務員だった父親が自己評価で「中の下」と言っていたが、戦後の国家公務員の生活は決して楽ではなかった。インテリ家族ではあったが、生活は相当苦しかったし世の中も未だ貧乏であった。僕の記憶の始まりは、家のガスが配給で一日に3時間位しか使えなかった事である。僕が3歳だった昭和25年に妹が生まれたのだが、毎日のお風呂を入れるのにガスの配給の時間に合わせて母親が洗面器でお湯を沸かしていたのを覚えている。洗面器のお湯を盥に移して程良い湯加減になるまで水で薄めて、妹を洗っていた。
 小学校の時は余り家が貧しかった実感はないが、中学、高校と大きくなるにつれ、友人との小遣いの差が歴然としてきた。高校の時は学校の帰りに友達が寄り道するのを尻目に一人で帰ったり、仲良しグループが夏休みにキャンプに行くのを親に言えずに我慢したりしていた。要するに必要最小限の事には困った事がないが、余裕は全くなかったのである。大学も僕までは、私大には行かせて貰えなかった。公立に入るか働くか、の二者択一だったのである。
 そんなだから、大学に入ったらアルバイトでもしなければ部活動も友達付き合いも出来なかった。僕はオーケストラ部に入部したのだが、その後の楽器の手入れや演奏会で着る背広の手当て、合宿の費用などは全てアルバイトで稼がなければならなかった。ところが世間知らずに育った僕はアルバイトの探し方がよく分からない。何時でも割りの良いアルバイトはさっさと友人に持って行かれてしまい、僕が気が付いた時にはきついアルバイトしか残っていなかった。
 家庭教師は別として、大学に入った最初の夏休みのアルバイトはゴルフ場のキャディである。当時は未だカートなぞと言うものは無かったから、年配の女性キャディもアルバイト学生も、皆キャディバッグを担いで歩いた。今で言えばプロの試合のキャディそのままである。キャディバッグは12kg〜14kgあったから、これを担いで18ホール、時には27ホール歩くのは都会の柔な学生には結構な重労働である。しかも土日で客の多い日には、ツーバッグと言って一人で二つ担がされる。30kgにならんとする大荷物を両肩に振り分けて担ぐ訳である。そして右へ左へと走りまわり、草むらに紛れたボールも探さなければならない。これはキツかった。でも歯を食いしばって、2〜3週間タコ部屋生活に耐えてキャディをやったお陰で、その年の秋の定期演奏会で着る背広と夏合宿の費用を稼ぐ事が出来た。
 その他に変わったアルバイトと言えば、真冬のウォッチマンである。これは横浜の本牧埠頭の貨物船の荷役を見張る仕事である。当時の荷役は沖仲仕という相当ガラの悪い連中が請け負っていた。彼等は平気で物をくすねる。物が無くなれば船会社なり乙仲は保険を求償する。その保険求償の条件に、ウォッチマンが見張っていた事が求められる。それでウォッチマンと言う仕事があった。初めての仕事の日に、沖仲仕は物をくすねるけれども決して咎めてはいけない、と注意されていた。彼等は船員用のビールや食料を僕等の眼前で平然とネコババしていたのだが、これを咎めれば翌朝横浜港に死体が浮く事になる訳である。だからウォッチマンなどと言うのは名ばかりで、ただ立っていれば良いのだが、僕のところにそんな仕事が回って来るのは余程引き受け手がいない時しかない。だから僕がやったのは真冬なのである。真冬の港の船上で一晩ずっと立っているのは相当辛かった。船では綿入れを貸してくれるのだが、そんな程度ではどうにも凌げない寒さである。綿入れの手袋も貸して貰ったように思うが、手の感覚などは全く無くなってしまう。早朝、船に寝泊まりしている下級船員と一緒に並んで受け取る朝ご飯に付いて来るスープがどれ程暖かかった事か。
 自動車の積み込みもやった事がある。未だ自動車運搬専用船など無い時分の事だから、四輪の下にネットを敷いてクレーンで釣り上げ、ハッチに下ろされた車を一台一台、ぴたりと並べて行く仕事である。それこそ隙間10cm位で並べて、車止めを噛ませて行く。隣に車が止まったら絶対に出られなくなる間隔である。でもこの仕事はハッチの中での仕事であるから、海風に直接当たる訳でもなく楽であった。
 デパートの配送もやった。今は宅配便が発達して配送は全て宅配便がやっているが、昔はデパートが自前の配送所を構えて、其々が配送していた。だから盆暮れには必ずアルバイトの募集があった。免許の無い者は自転車で近場を、免許のある者はミゼットと言う小さな三輪車で遠隔地を受け持った。僕は素人だから自転車はしんどかろうと、最初の時はミゼットを希望したのだがこれが結果的には大損であった。自転車だと大きな荷物は渡されない。大きな荷物は本職がトラックで運ぶ。ところがミゼットは大きな家具などは別として、大概の物は運ばされる。これを疵付けずに団地の階段を一人で運び上げるのは大変な重労働であった。今でも覚えているが、カルピス2ダースと言うのがあった。これはビール2ダースよりも重かった。だからお仕立券付きワイシャツなどが来たら、大喜びである。カルピス2ダースもワイシャツ生地も歩合は同じだったのである。
 一番楽だったのは、他所の大学オーケストラの手伝いであった。大抵の大学オーケストラは演奏会の時に臨時のプレーヤーを入れて足りないパートを水増しする。3年生位の時からそんな仕事が回って来るようになった。これは楽であった。一度の演奏会で、週一度の家庭教師の一ヶ月分ぐらいのギャラを呉れる。事前に一度ぐらい練習に顔を出し。後は本番前の最後の練習に付き合えば良いのだから割が良い。そんな仕事が来るようになってからは余りキツいアルバイトをしなくなった様に思う。
 何れも今では楽しい想い出である。肉体労働の時は毎日へとへとになり、夜は襤褸布の様に眠り朝は這って仕事に出掛けたものだが、お陰で随分逞しくなったと思う。世間の塩辛い水を舐め、裕福な家庭に育った友人とは随分異なった経験をしたのかも知れないが、キャディやウォッチマンなどは普通の人は中々経験しない特異な経験であったと思う。今でもゴルフなら、素振りを見ればその人のハンディが大体分かるし、球がどちらへ行くかも想像が付く。自分の球でなければの話なのだが。