baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 バングラデシュへセンチメンタル・ジャーニー(II)

 今日は少し遅めの朝食を摂り、早速ホテルの周りを散歩に出た。懐かしい独特の臭いがツンと鼻を突く。主に生ゴミの饐えた臭いである。ホテルを出て10歩と歩かないうちに片腕のない乞食に寄って来られた。ここの乞食はしつこい。インドの乞食のように体に触ったり着ている物を引っ張ったりはしないが、断っても無視しても中々諦めない。それで根負けして小銭でも渡そうものならあっという間に他の乞食に取り囲まれて身動きが付かなくなるから、とにかく人前で乞食に恵んではいけない。それでその乞食にはまるで気付かないように歩き続けたが、200m位も付き纏われ内心は凄く心地悪かったのである。
 夕べ見た、囚人護送車のようなベイビータクシーが今日も沢山走っていた。この金網は、少なくとも乞食が手を入れて来ないメリットはある事に気付いた。

 スターレットのような小さなタクシーはこれ。中には定員無視ですしづめに乗客を乗せているタクシーもある。

 ホテルから見た街並みには昔の面影はすっかり無くなっている。車が多い。昔はこの界隈は高級住宅街だったのだが、今はすっかり商業地区である。


 僕が住んでいた処にも行ってみたが、夕べ見た建築中のモールのような建物があったのは隣地で、僕の家は今は空き地になっていた。一等地の700〜800㎡の土地だから、何れビルになるのであろう。僕の住んでいた建坪300㎡程の総二階の瀟洒な家は跡形も無かった。ここに、僕一人と使用人5人が暮らしていた。回教国だから使用人は皆男である。庭の芝生ではゴルフのアプローチが練習出来た。庭にマングースが出た事もある。だから当然蛇もいたのだと思う。
 この家である年の年末に現地の人を招んでニューイヤー・パーティーをしたら、130人も集まってしまい車を駐める場所も無く、また一晩中バカ騒ぎになってしまって警察が飛んでくる騒ぎになった事がある。その時は客の中に政府の偉い人が何人もいて、警官が逆に怒られて退散したのであった。また或る時には政府の高官が愛人を連れてやって来て、部屋を貸せと言ってきた事もある。若い僕には断る術も無く、苦々しい思いで出掛けてしまった事もある。色々と想い出深い家であった。
 午後はホテルで車を雇って、昔の事務所の辺りへ出掛けてみた。事務所の建物は随分迷ったが、結局昔のまま未だ残っていた。

 この界隈が昔はダッカの丸の内だったのだが、今はむしろ下町の雰囲気である。道端で果物を売っている愛想の良い若い娘がいた。古着が山のようにワゴンに積まれて売られていた。こういう店は昔はなかった。道端でサラダの様な物を拵えながら商っている男もいた。顔つきはいかつくニコリともしないのだが、茶目っ気のある男であった。



 運転手と話していて思い出した。バングラデシュには他では使われない数字の単位がある。元々はヒンズー語なのかも知れないが、クロール(Crore)とラック(Lakh)である。クロールは一千万、ラックは十万を指す。今手元に辞書は持ってきていないが、確か英語の辞書にインド英語として載っていたと思う。これも懐かしい言葉である。
 最高裁判所の前を通ったので写真を撮った。昔はこんなにきれいな建物ではなかった。大分手入れされてきれいに蘇ったものであろう。その最高裁判所の正面に国旗が掲揚されていた。バングラデシュの国旗は緑地に日の丸である。以前にも書いたと思うが、緑色は退色堅牢度が低い色なのですぐに脱色して色が無くなってしまう。色が無くなれば古びた日章旗になってしまう。それで物が欠乏していた35年前には、バングラデシュの其処此処に日の丸が翻っていたものである。もっともよく見るとバングラデシュの国旗の日の丸は日本のそれよりも幾分大きい。


 バングラデシュではクラクションを平気で鳴らす。「危ないぞ」「俺が先だ」「早く動け」「そこをドケ」何でもクラクションである。だから道路の到る処でクラクションがけたたましく合奏している。インドネシアでもこんな事は無い。車の運転も滅茶苦茶だが、クラクションの使い方は輪を掛けて滅茶苦茶である。これも懐かしい想い出である。
 夜はホテルの近くのベンガル料理屋へ行った。極く普通のレストランで、チキンテッカとナン、白飯、カレー二種類を頼んで745円程であった。アルコールは置いてなかった。久しぶりに本場のカレーを食べ、ホテルに戻ってから燃料を補給した。