baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 いじめ

 この頃中学校での「いじめ」のニュースが多い。いじめと聞くと連想するのは、いじめられっ子をみんなで無視する、仲間外れにする、これ見よがしにヒソヒソ話をする、そしてもう少しエスカレートすると持ち物を隠す、などの学校での集団意地悪である。こういういじめに遭えば、学校が社会生活の殆どを占める子供には耐えがたいストレスであるが、このレベルのいじめであれば先ず本人がしっかりといじめに立ち向かい、親と学校が連携して本人をサポートする、と言うのが問題解決の原則だと思う。
 しかし残念な事に、最近の事件を見ていると「いじめ」などと言う生易しいものではなさそうである。簡単に言えば恐喝、傷害、脅迫、窃盗、強盗の類であって、もはや「いじめ」と言う呼び方は当て嵌まらない、明らかな犯罪である。そしてこの犯罪を助長しているのが、犯罪者側が未成年者であり犯罪を犯していると言う意識が希薄である事、他方被害者の方にも毅然として犯罪に立ち向かうという意思が薄弱な事であろう。更に言えば、犯行に走る子供がしっかり躾けられていない、不審な金を持っていても親が気付かない、他方被害に遭う子供が親に心から相談出来ない、と言う親の側の問題が見えてくる。
 特に犯行側の親には、しっかりと事実を受け止めて自分の子供を躾ける厳しさが求められるのだが、実際にはそういう躾が出来る親にはそもそも犯罪に走る子はおるまいから、問題は簡単では無い。つまり、学校でいじめをする様な子供は親に問題があるのだから、ある意味根が深いのである。そもそも、特に中学生の場合は、もう「いじめ」と言う曖昧な呼称は止めて、恐喝だとか傷害だとかいう明確な犯罪の呼称に変更したら、多少は類似事件の抑止の一助になるのではなかろうか。
 こういう問題で一般に僕が常々疑問に思うのは、何故犠牲が出るのを家庭で未然に防げないのかと言う事である。別の言い方をすれば、親が学校や教育委員会に責任を押し付けすぎではないか、と思うのある。学校の教師と雖も常時数十人の生徒を見ている訳で、とても一人一人にまでは目が届かないし、しかも24時間見ている訳でも無い。更に生活指導なども学校教育の一部であるとは言え教師の本来の仕事は授業であって、生徒の私生活の監視ではない。だから学校に多くを期待する事がそもそも無理なのである。況してや教育委員会などは生徒と直接接触がある訳ではなし、犯罪事件の抑止など願うべくもないと思う。翻って、子供を一番身近で観察出来るのは親である。親は精々数人の子供を毎日見ている訳だから、親が子供の変化や不審な挙動に一番敏感であるべき筈である。その親が家で気付かなかった我が子の挙動不審を学校の責任に帰すのはどういう思考なのか、僕にはどうにも腑に落ちない。
 現実に犠牲者が出ているので余り無責任な事を書くのは如何かと思うものの、敢えて言えば親が事程左様に他力本願だから、子供が暴力や犯罪に自身で毅然と立ち向かう気力に欠けるのではなかろうか。子供に気力があれば、もっと親に主体的に相談するであろうし、二階から飛び降りるぐらいなら死に物狂いで恐喝者に立ち向かうのではなかろうか。親は真剣に子供の訴えを聞けば、必要に応じ学校に訴えるなり、学校が頼りにならなければ法的手段を取るなりの予防措置が取れるのではなかろうか。この頃はストーカー事件の顛末などを見るにつけ警察もすっかり頼りないから、この手の事件を何う法的手段に訴えるかは難問かも知れないが、大人が知恵を絞り断固子供を−我が子のみを庇うのではなく−公平に守る意思を持てば、何か方法は見つかる筈である。
 ところで、子供の世界に斯くも陰湿で歪んだ人格が浸透しているらしい事がそもそもの大きな問題である。江戸時代末期から明治初期にかけて来日した外国人は、日本人はみな粗末な衣服を纏い貧素な生活をしているのにどうして大人も子供もみんな底抜けに明るく、他人に親切で、何時も笑顔を湛えているのだろうかと訝しんだと言う。そんな逸話からも分かる通り、本来日本人は明るく親切で、共同生活に馴染んできた農耕民族であった筈なのである。それが僅か150年程の間に、何とも利己主義で意地悪な民族に変わりつつあるのかも知れない。ママゴンに代表される、自分には甘く他人には厳しいと言う風潮もその一環であろう。「いじめ」は子供の世界の問題に止まらず、日本人全てが改めて己の心の中を見直す為の警鐘なのかも知れない。