baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 頌徳

 昨日は久しぶりに、中学時代の仲間の集いに参加した。忘年会であった。僕は普段は暇なのに、今年は秋口から何故か予定が詰まってしまい中々集まりに参加できなかった。僕にとってはそんな久しぶりの集まりだったのだが、何時もいた仲間が一人欠けていて何だか酷く納まりが悪い。無口で余り目立たないのだが、気が付けば何時もいなければ何事も始まらない男であった。特に女子と男子の懸け橋としては換え難い存在で、極く自然に女子だけの集団にも溶け込んでしまう奇特な男であった。女子だけの昼食会に一人潜り込んでみたり、折角女子だけと名打った散策会にも平然と一人で顔を出す。女性も彼は準会員と認めて、彼だけには嫌な顔をしないのも不思議であった。かと言って決していやらしい男ではなかった。何時もマメに写真を撮り、それをBGM付のDVDに纏めて皆に配ってくれた。仲間の一人が米国に移住する事になった時には、特性の記念アルバムを作って、それこそ100枚以上の写真を見事に構成してプレゼントしていた。
 その彼に、1年5か月前に突然酷く難しい癌が見つかり、その4日後には切除した。医者に後何日の命かと詰問し、医者が返答に窮した事から自分の運命を悟った。それからは必死の毎日であったろうが、そんな思いはおくびにも出さずに何時も寡黙ながらもニコニコとしていた。抗がん剤の副作用で手足に酷い炎症が起き、歩行にも支障を来していた時にも、黙々と僕達の散策に付き合っていた。腹水でお腹がパンパンに膨れ上がり、触ると本当に固かったのだがあれはこれ以上お腹が膨らまないぐらい水が溜まっていたのである。去年の年末ぐらいからは妙な咳をするようになり肺にも転移したかと訝しんだが、当人の説明では腹膜に転移していて腹水と胸水が溜まっているとの事であった。深呼吸できないから、息は苦しかったのだと思う。今年の夏にはついに歩く辛さに耐え兼ねて、スクーターを購入した。真っ赤な、何とも希望に燃えたスクーターであった。その友が10月初旬に、力尽きて逝ってしまった。遺言のようなノートが残されており、それを読むと運命に対する諦観と、まだまだやり残した事への意欲とが錯綜していて、その胸中いかばかりかと察するに余りあった。
 僕は海外にいて、彼との別れには参列できなかった。仲間内で追悼会をやったのだが、その時も海外で参加できなかった。帰国後に、家主のいなくなった家でやっと遺灰を拝み、ノートを読ませて貰った。だから彼の不在を実感したのは昨日が初めてなのである。以前にも書いたが、親との死別は覚悟の上の順番である。しかし親友との死別は曰く言い難い。とにかく、昨晩改めて彼の不在をこの上なく寂しく実感した。来年早々に再び彼の追悼集会が、彼が好んだカントリーのライブハウスで、彼が生前親交していた本場米国からのプレーヤーも交えて行われる。僕達中学の仲間も勿論一緒に追悼する。中学時代には、当時流行りだったハンク・ウィリアムスなどを、ギター片手に一緒に歌った事を想い出す。