baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 不愉快なお詫びの最敬礼

 何時頃から始まった悪習か分からないのだが、しばしばテレビで目にしてその都度不愉快な思いをするのが、不祥事の都度企業の責任者などが「申し訳ありませんでした」と深々と最敬礼する姿である。頭を下げている人が不愉快なのではない。こういう悪弊が罷り通る事がいたく不愉快なのである。今日はANAボーイング787が飛行中に操縦席で煙を感知して高松空港緊急着陸した事故に絡んだ全日空の記者会見の席上で、また最敬礼が出て来た。航空機の運航会社として乗客や関係者に対して詫びを入れ、責任を明らかにするのは当然だが、メディアの記者やテレビのカメラに深々と頭を下げ、僕の様な全くの部外者にもテレビを通して最敬礼をする昨今の悪弊が僕には耐え難いのである。全日空がわざとそんな事をしたと思う人などいないのだから、詫びは詫びとして、何もそこまで卑屈になる事はない。
 日本の文化・習慣には、「男子軽々に頭を下げるべからず」と同時に「己の過ちは潔く認め、言い訳をしない」と言う事がある。後者があるから日本人は外国人と比べると、圧倒的に簡単に己の非を認め、詫びをする。むしろ責任の所在が不明確なうちから、迷惑を蒙った人には先ず詫びを入れる事でその先の話し合いがスムースになるのが日本式である。裁判でも、反省の態度が見られない、だとか公判中も不逞々々しいとかの理由で求刑が軽すぎる、などと言う議論がなされるのが日本式である。だから、挨拶で頭を下げる上に、何か問題が発生すれば何はともあれ先ず詫びを入れて頭を下げるので、外国人から見れば日本人はのべつ幕なしに平身低頭、クレームを付ければ先ず謝ってくるという不思議な民族に映る。それは善し悪しで、ここでその習慣についてとやかく言うつもりはないのだが、とにかく外国人は一般に滅多に謝らないが、日本人は簡単に謝ると言う文化の違いがある。その日本人が見ていても行き過ぎで不愉快なのが、この企業の責任者のメディアの前での平身低頭である。
 そもそも新聞記者やテレビ・カメラには何も直接悪い事をしている訳ではないのだから、そんな輩に頭を下げる謂れは一つもない。新聞記者やテレビが国民を代表しているのとも全く違う。それをのうのうと受け入れているメディアの人間の無神経さに先ず腹が立つのだが、新聞記者が常軌を逸した無知、無礼で傍若無人なのは重々承知しているから彼らに常識を求めても時間の無駄である。僕が現役の頃にインタビューに来た某全国紙の若造の中には、挨拶の仕方も知らなければ普通の椅子への座り方も分からない輩も混じっていた。そういう若造は当然の事ながら口のききかたなど全く躾けられていないのだが、こちらはメディアを敵に回してろくな事にはならないから、腹立ちを隠して丁重に応対する。ところが翌日の新聞を見れば、人の話を曲解して自分のストーリーに仕立て上げた、殆ど事実無根の話が出ていたりする。こういう男は特別だったかも知れないが、仕事で面談した新聞記者は悪意に満ちた捏造も含めて何を書くか全く信用できなかった上に、無礼か慇懃無礼のどちらかでであった事に例外はなかった。そんな輩に企業の責任者は深々と最敬礼しているのだから、理不尽極まりない。テレビの方は個人的にはインドネシアのテレビ局しか知らないので新聞記者との比較は出来ないのだが、同じ穴の貉だから所詮は五十歩百歩であろうと勝手に想像している。
 しかも誰が始めた悪弊か、こういう慣習は一度始まってしまうと止められなくなる。頭を下げないとまるで反省していないかの如き受け止められ方をしてしまう。ジャーナリストやテレビの視聴者に頭を下げても全く無意味なのだが、それでも止める訳には行かなくなる。外国人まで訳も分からずだろうに、頭を下げさせられる昨今である。僕はこんな悪弊は国辱ではあっても、少しの意味もないと思う。直接の被害者や関係者には、責任者は誠意をもって謝るのは当然の事であるが、それは個別の事であるべきである。こういう形ばかりの、見苦しい悪弊は、何とか早急に止めて欲しいと願って止まない。先ずは無神経で礼儀知らずの新聞記者や、恐らくは同類のテレビ記者が、率先して廃止すべき悪弊であると思う。少なくとも20年前には、こんな無様な習慣は未だなかったと記憶する。だからと言って、反省が足りないなどという批判は一切なかった。