baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 金沢で葬儀

 近しくしていた知人が、前から患ってはいたものの突然亡くなってしまった。家族は勿論、病院の看護師もあっけに取られるような、あっという間の大往生であったらしい。それで僕は昨日から葬儀に出る為に金沢に行っていた。
 金沢だから当たり前の様に浄土真宗である。しかし宗派が何かと言う以前に、葬儀自体が地方により随分違う事を今回実感したものである。僕は今までも何度か金沢の葬儀には参列している。しかし何時も東京流に、開始時間ぎりぎりに出向いていたので実態を知る機会がなかった。ところが今般は個人と近しくしていた為、家族と一緒に早くから会場に出向いていて分かったのだが、金沢の会葬者は通夜なり葬儀開始の1時間ぐらい前から集まり始める。そして順次焼香をする。通夜に到っては、読経が終わったらそれでお終い、会葬者の焼香はない。つまり会葬者は坊主が入って来る前に、自分等が着席する前に、各自焼香は済ませておくものらしい。しかし告別式では流石に会葬者にも、読経の後、親族に続いて焼香のチャンスが与えられた。
 浄土真宗は清めの塩は配らない。これは東京でも同じである。遺体は不浄ではないと言う理屈である。受付での記帳はなかった。思い返すと以前も金沢の葬儀で記帳した覚えはない。多分、記帳しないのが普通なのであろう。逆に東京では必ず記帳する。だから葬儀が始まる直前には受け付けに列が出来る。香典返しも東京とは異なる。金沢では、東京で言う処の会葬御礼が香典返しになる。東京なら49日が明けると、無事に49日が明けました、或いは更に納骨を済ませました、といった挨拶状を添えて、半返しと言って香典の額の半額を目安に品物を贈る。それが金沢では全員一律、来た人に同じものを渡すだけである。以前僕は、知人に頼んで香典だけ出して貰った事がある。当然そのうちに香典返しが来るだろうと思っていたのだが、幾ら待っても音沙汰がない。別に香典返しが欲しかった訳ではなかったが、ちゃんと香典が先方に届いたのか一抹の不安を覚えた。ところがその次の同様なケースでも、やはり何も送って来なかったので、ひょっとすると金沢ではそういうしきたりなのかと思ったりしていた。それが今回はっきりした。直接金沢の人に確かめたら、やはり我々の言うところの会葬御礼が全てだったのである。もっとも、中身は東京の会葬御礼より立派なのはある意味当然かも知れない。
 通夜の後には伽がある。金沢では呼び方が異なるが、やはり同様に軽食とアルコールで個人を偲んで献杯をし、談笑する。吃驚したのは、その場所に棺が運ばれてきたのである。そして遺体の顔が拝めるように、棺の小窓を開けるのである。なる程、未だ成仏していない訳だから酒席に一緒に並んで賑やかにやろうと言うことなのであろうが、東京では一度祭壇に据えてしまったらもう斎場に向かうまで遺体を動かす事など考えられないので、本当に吃驚した。同時にインドネシアのトラジャ地方の、埋葬するまでは遺体は半年でも1年でも、常に家族と寝食を共にする風習を思い出した。
 一方で、通夜の読経は長かった。読経の後の焼香がないから、時間はたっぷりある。坊主は4人いて一斉に読経するのだが、声の調子が微妙に合わない。音感が悪いのかと思っていたら、時々はピタッと合せる事が出来るので、音感が悪い訳ではなくわざとやっているらしい。それにしても、なんとも微妙に不協和音にする。時には中の一人が突然カウンターテナーの様な裏声を張り上げる。同じ経を読んでいるのは間違いない。どういう決まりなのか、とにかくあの微妙な調子のずれは西洋音楽に慣れ親しんだ人間には絶対に真似が出来ないと思った。あの坊主達は、カラオケを歌わせたら恐らく音痴だろうと想像したりもした。それと今般初めて、読経の目的は死者を眠らせる為の催眠効果ではないかと思い到った。もしそうであるなら、会葬者は唱和しない限りは眠くなって当たり前である。これは金沢云々ではなく、浄土真宗大谷派の話である。
 それにしても、段々周りから同年代の人が欠ける歳になって来た。