baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ベビーカー

 ベビーカーの使い方の指針を、国交省が纏める事になったと言う記事を少し前に見た。昨今は人混みや電車の中で、ベビーカーを巡り色々と軋轢が生じているらしい。東京の様に人が多ければ、当然の帰結である。
 今から40年近くも前ならば、まだ折り畳み式のベビーカーは出たばかりで、僕の現役時代の会社も欧州品を輸入して、暫くはヒット商品であった。その頃は折り畳み式の利点は、折り畳めば電車にも乗れますと言うのが売りで、電車などに乗る時にはベビーカーは折り畳んで、子供は抱くのが当たり前の時代である。それが何時の間にかベビーカーごと電車に乗るのが当たり前になってしまった。大して混んでいなければ構わないけれど、混んだ電車に堂々と乗り込んで来て、母親は周囲の迷惑も何のその、ひたすら携帯に気を取られていて周囲の人間の迷惑などどこ吹く風という光景が当たり前になってきた。中には若い亭主も一緒で別に大きな荷物も無いのに、平気で傍若無人に混んだ電車にベビーカーを広げたまま乗って来る夫婦もいる。こんな時には「くらぁ〜〜」と声を荒げたくなるのを、じっと我慢する。一方で、小さな赤ん坊を連れて荷物を幾つも抱えてふうふう言っている若い母親が、ベビーカーに赤ん坊を乗せて電車に乗って来る事もある。時には、更に上の子の手を引いていたりする。こんな母親を見れば手を貸したくはなっても、少しも文句を言う気にはならない。
 こんな具合にベビーカーについて眺めて見れば、結局はやはりベビーカーを使っている当人がどれだけ周囲に気を遣い、周囲の人間がどれだけその若い親に同情を感じるかと言う事に尽きると思う。国交省がどんな規範を作るのか知らないが、規範の問題と言うよりは文科省の道徳教育の問題なのである。例えば僕が足を骨折していた時の事、電車で片手で吊革にぶら下がり、片手で松葉杖二本を持って立っていると、電車が揺れた時の吊革側の手に掛かる負担は想像に絶する。何しろ一本足で立っている体を片手で支えるのだから、大変な力が腕一本に掛かる事は想像に難くない。そんな状態の時でも、席を譲って貰えるのは二度に一度程度なのである。敢えて譲り合いの席の前に立っていても、その程度である。若い人は居眠りをしたり携帯に夢中になっていたりで、目の前の松葉杖には気付いてか気付かぬのか、中々席は譲って貰えなかったのである。関を譲ってくれるのは年配の人や、中高生に多かった。
 ベビーカーの問題も、根本にはこういう、自分さえ良ければそれで良し、周りの事には我関せずという風潮がその根底にあるのだと思う。それはベビーカーを使う側にも、その周囲の人間にも共通して言える事だと思う。であれば、今こそ改めて、他人に迷惑を掛けない、どうしても少しは迷惑を掛けてしまうとしても、せめて迷惑を最小にしようという心遣い、他方で困っている人を助けよう、少しでも困っている人の力になろうと言う心遣い、そんな心遣いを何時も心掛けたいものと思う。この問題は本来国交省が出て来る問題ではなく、日本人が昔は普通に持っていた心、今は一人一人が敢えて日頃心掛けるべき心の問題なのだと思う。