baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 クーデターの夜

 海外で生活していると、色々な場面で日本人としてのアイデンティティを強く感じさせられる。僕はサラリーマン現役時代の半分近くを海外で過ごしているので、一般の日本人よりは多少変わった経験もしており、その分日本人としての自覚も一般の人より強いと思う。

 1975年、僕はバングラデシュに駐在していた。この年はクーデターが続き、4ヶ月間でクーデターが三回あり、内二回は大統領が射殺された。その三度目のクーデターの時のこと。
 クーデターが市街戦の様相を呈して来て、自宅の近くでもあちらこちらから銃撃戦の音が聞こえ始めた。クーデター慣れしていたので、初めは迫撃砲の曳光弾などをベランダから眺めて戦況判断をしていたのだが、市街戦になるとそう呑気にしてもいられない。そのうちに流れ弾が近所の通信塔に撥ねてカンカンと音がしだした。こんなところで流れ弾で死んだら犬死だ。幸い自宅は赤レンガ作りなので小銃弾や機関銃弾なら貫通しない。慌てて二階の寝室で横になり、窓の高さと自分の頭の高さと窓から飛びこむ弾丸の飛翔線を計算したりしながら、息をつめてじっとしている。負け組の兵隊が塀を乗り越えて僕の家に逃げ込んで来ないように念じながら、護身用ピストルを装填する。
 ちょうど、南ベトナム崩壊で日航機が残留邦人救出のために決死の飛行をした直後である。当時は自衛隊の派遣など議論もされない時代だから、頼りない事この上ない。テレビで見るのとは大違いの乾いた銃声がそこかしこから聞こえてくるのは、自分が標的ではないと分かっていても気持ちが悪い。日航機の救援は来るのだろうか、などと一晩中考えていた。日航機が来てくれなければ、混乱のバングラデシュに取り残される、という恐怖が段々大きくなる。日本に置いてきている妻と、殊に幼い娘とまだ見ぬ息子の事がしきりに思われる。
 翌朝、というより早暁、銃撃戦の銃声は勝ち組の歓喜の歓声と、勝利の興奮で空に向けてめちゃくちゃにぶっ放す銃声に取って代わられた。恐る恐る門から首を突き出して外を見ると、門からほど遠くない道路に死体が転がっていた。ラジオ放送は何を言っているのか全く分からないが、国歌がずっと流れていて、時々同じ事をアナウンサーが繰り返している。革命は成功したので、国民は各持ち場を守れ、とか市民は外出するな、とか言っているのだろう。結局、その後は大した混乱もなく、日航機の救援は必要なかった。しかし、こういう時には外国の飛行機は全く当てに出来ない。先ず乗せて貰えない。蜘蛛の糸日航機だけだった。

 自分の身を守るのは先ず自分、そして個人ではどうにもならない時に頼れるのは日本国しかない、と否応なしに実感させられる事がその後も時々あった。大きな出来事も、些細な事柄もあるが、また、思いつくままに綴ってみよう。