baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 戒厳令

 今日もバングラデシュでの話し。バングラデシュは社会人になって初めて駐在した土地なので、インドネシアと違った意味で色々な想い出がある。思いつくままに未だ暫くバングラ時代の話が続くかも知れない。

 1975年の三度目のクーデターの後、ずっと戒厳令が布かれ、夜間外出禁止令が実施されていたその年の年末。クリスマスイヴだけは夜間外出禁止令が解かれる、というデマが飛んだ。当時は未だ飛行場は羽田、飛行機の主力はDC-8とB-707の時代である。我々の国際ニュースのソースと言えばNHKの海外短波放送と日本の本社から毎日送られてくるテレックスのニュース速報のみであった。余談ながら、この時代に、新聞と言うものは一週間も遅れて届けば新聞紙になっている、と実感したものである。翻って現地のニュースといえば現地の英字新聞が止まってしまえば後は現地語のラジオと白黒テレビだけ。日常生活はインド英語で事足りるので現地語を理解する外国人は皆無に近い中、デマがデマと分かった時には後の祭りだった。

 外国人は誰もが仕事もなく、家に閉じ込められる生活に飽き飽きしていたので、このデマに飛び付き誰かの家に食べ物、飲み物持参で集まって夜遅くまで憂さを晴らした。その帰り道、僕の家は他の友人たちの家よりも少し離れていたので、一人で真っ暗な夜道を運転していると、突然道の両側からバラバラと人が飛び出してきた。戒厳令下なので比較的治安は良かったが、それでもギョッとしてブレーキを踏む。軍の検問だった。5〜6名の兵隊が銃をかまえたままさっと散開して僕の車を取り囲む。中には銃剣を着剣している者もいる。それでも、強盗でなくて少しほっとした。

 隊長と思しき小柄な兵隊と、銃を構えた士卒が近付いてきた。運転席の窓を少し開けると、いきなりその隙間からカービン銃を差し込まれ、頭に銃口をつきつけられた。外出禁止令を知らないのか、こんな時間に何をしているのか、と詰問される。銃身の内側が鏡のように青白く光っているのを横眼で見ながら、頭のどこかで、指はもう引き金に置かれているぞ、撃たれなくても暴発したらお終いだな、と酷く冷静な分析をしている。一方、頭の別の部分をフル回転させて、懸命にデマの説明をし、パスポートを提示して日本人である事を力説し、幸いもう家にも近かったので何とか身の証を立て解放して貰った。下級将校らしい若い隊長が、色の白い僕の顔をじっと見つめて最後に信用してくれたので助かったが、解放されるまでカービン銃は微動だにせず頭に突きつけられていた。家に辿り着いてから、急に恐怖に襲われ足が震えた。

 そもそも戒厳令というのは、何人と雖も不審な者はその場で射殺されても仕方のない、問答無用の法である。大日本帝国ですら戦争中を通じて2・26事件の時が最後で、それ以降は政府が戒厳令を発布した事はないと思う。そういう非常時にデマを信じて外出したのだから無茶をしたものだが、この時には日本人であるが為に助かった反面、日本人が故にその場で抹殺されても如何様にも処理されてしまっていたであろう。