baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 バングラデシュの想い出 〜 (1)

 1947年にイスラム教対ヒンドゥー教の対立から、インドからパキスタンが東西に分裂した形で、東西パキスタンとして独立した。しかし、東パキスタンは西パキスタンに比し貧困の度が高く、投資も西からの投資が大部分を占め、経済的に西に牛耳られる結果となった。その不満が高じて東西間で内戦に発展、更にはインドの政治介入から内戦は第三次印パ戦争に発展、結局1971年12月に西パキスタンが譲歩する形で旧東パキスタンバングラデシュとして独立した。
 僕は、その首都ダッカへ1974年4月に初代の機械担当駐在員として赴任した。未だ独立してから3年有余の若い国であったが、世界最貧国を争う国でもあった。当時の人口は公称8,000万人、我々駐在員の見立てでは1億人、現在の人口は日本の外務省の数字だと1億6千万人にのぼる。当時は国際線の飛行機は、インド−バングラデシュ間に週数便インド航空が飛んでいたのと、週に二便、火曜日と金曜日にバンコクダッカ−デリーを往復するタイ国際航空しかなかった。ダッカ国際空港とは名ばかりの粗末な建物と短い滑走路の飛行場が当時はまだ市内にあり、これまた名ばかりの空軍と共用していた。ベトナム戦争の時代のバングラデシュ空軍には未だプロペラの戦闘機があった。
 ダッカに始めて到着したその日、外貨規制が厳しく持ち込み外貨は1ドルに至るまで申告が必要で、またコレラ天然痘の予防接種をしていないと入国させて貰えない時代であった。建物は粗末で狭く標識もろくにない、税関吏も不慣れなら列を作る習慣もない、勿論空調はなく蒸し風呂のような中で、大混乱の坩堝を押しあいへし合い、何とか切り抜けて荷物を待っていた。
 そのうちにスーツケースを満載したトロリーが到着すると、待ち構えていたポーターがワッと群がって荷物の取り合いをする。ポーターと言っても腰巻一つで上半身は裸の汗みずくの男たちである。乗客は、というと自分の荷物を見付けると、そのままポーターに担がせて税関吏のところに運ばせる。僕も見よう見まねで同じ事をしたが、早や僕のスーツケースはポーターの汗でドロドロになっていた。税関吏はスーツケースを開けさせると、汗だらけの黒く汚れた手を突っ込んでやたらに引っ掻き回す。下着やワイシャツが汚れてしまう。彼等はお金が欲しかったのだが、初めてダッカに行った若き日の僕にはそんな気転はないので、必死になって自分の日常の身の回り品だけだと、向こうにしてみれば言われないでも分かり切っている事を、口角泡を飛ばして説明した。結局、カートンで持ち込もうとした入札書類が多すぎるという理由で、書類に税金を取られて放免となった。
 ポーターに付いて税関を出ると狭いロビーには出迎えの人がひしめいている。通路もないほど人で一杯である。そこを何とか横切って車止めへと向かうと、ロビーから4〜5段階段で下りる構造になっているのだが、その階段に乞食がひしめいている。乞食はロビーには上がってこられないので、階段で待機している。そして僕のように一見して外国人で、且つバングラデシュに不慣れな人間はまたとないカモなのだ。ポーターだけ通すと、僕をわっと取り囲み、膿の垂れている手やらドロドロの汚い手で僕のシャツやズボンを引っ張りお金をねだる。日本から来たばかりで皮膚病やら病人やらが一杯の乞食には未だ少しも免疫がないから、恐怖で金縛りになってしまい一歩も動けない。モタモタしていたらあっという間に乞食の人垣ができてしまい、僕はもうパニックの極みである。進退極っていたら出迎えの駐在員が何やら怒鳴り散らして乞食を追い払ってくれ、やっと車に乗る事が叶った。ポーターにチップをやる。この些少なチップのためにポーターは先刻スーツケースの大争奪戦を戦って来たのだ。負けたポーターには一銭も入らない。この時の強烈な印象は、忘れようとしても絶対に忘れられない。
 暫くはホテル住まいであった。ホテルは町の一等地にあるのだが、未だ空き地が多く建物は余り建っていなかった。そして周囲の道路の両側には高さ60cm〜80cmくらい、長さ2m〜3mの蒲鉾形でビニール張りの、テントほど豪華ではなく、バラックほどしっかりもしていない、何と形容して良いのか分からない構造物がびっしりと並んでいる。これが地方から食い詰めて流れて来た難民の住まいである。トイレはないので、朝早いうちに道端で用を足す。だから朝は道路が酷く匂う。ゴミもすべて道端に捨てる。これも高温多湿の下、あっという間に強烈な悪臭を発するようになる。時にはカラスやヤギもゴミに埋もれて死んでいる。そして、地元の人はパンという、葉っぱに何種類かの香辛料を巻いてガムのように噛む嗜好品が好物である。これを噛むと歯や口の中が生き血を吸ったように真っ赤になる。ガムと同じで、暫く噛んだ後、辺り構わずそこら中に吐き出してしまう。これが直ぐに発酵して強烈な独特の匂いを出す。ビニールハウスには窓や、風を入れる仕掛けは無論ないから、住人達は普段は道端にしゃがんでたむろしている。道路はこんな状況であった。
 こうして、僕の駐在員生活が始まった。