baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 バングラデシュの想い出 〜 (2)

 暫くホテル住まいをした後、一戸建ての家を高級住宅街の一角に借りて、移り住んだ。広い芝生の庭があり、白塗りの総二階の大邸宅である。応接間だけで25坪位ある。先ず使用人を雇う。厭でも何でも雇わざるを得ない。金持ちの義務みたいなものである。使用人はみな男である。ベビーシッターだけは女の使用人がいたが、後は未だ女性は表で働く習慣がない。僕は単身赴任だったのでベビーシッターには用がないのだが、使用人の仕事の守備範囲が厳格に分かれているのでいきなり3人雇うことになった。それでも最低人数であった。執事兼コック、庭師、門番、である。普通は執事とコックも別々にするのである。更に会社で雇っている運転手がいる。
 当時のバングラデシュはとにかく貧しい国で、街には僕達外国人が使えるものは殆ど売っていなかった。ある時、ダッカで当時唯一無二だった外国人でも泊まれるホテル、インターコンチネンタル・ホテルの売店で歯磨きを見付けたので試しに買ってみた。インド製のコルゲート歯磨きだった。その頃のバングラデシュ独立戦争で助けて貰ったインドとは政府間は蜜月で−市民は反感を持っている人の方が圧倒的に多かったが−街にはインド製品が沢山出回っていた。早速持ち帰って試してみたところ、干からびていて肝心のクリームが出て来ない。チューブも破けんばかりに力いっぱい押したらポロッと小さな塊が落っこちた。勿論歯磨きには使えない。また力いっぱい押すと、暫くしてまたポロッ、とカチカチの小さな塊。そんな事を繰り返してやっとクリームがクリームらしく柔らかくなった時には、残りは五分の一ぐらいになっていた。チューブの製品は便秘になる事を僕はこの時に学んだ。
 当時のバングラデシュの一般の人は歯を磨くのに牛の糞を使っていた。牛の糞は煮炊きの燃料になるので女子供が昼間、野原で手をベトベトにしながら出来たてを拾い歩き、暫く乾燥させた後に燃料にする。その燃えカスの灰を集めて水で練ると歯磨きになる。黒いペースト状の歯磨きを自作して、手ごろな缶や壜に詰めておく。使う時にはそれを指に付けて、指で歯を磨くのである。僕が子供の頃には、指に塩をつけて歯を磨いた事があるような記憶があるが、やり方は一緒である。僕等から見ると気持ちが悪いが、これも文化の違いであり彼等は平気である。確かに燃えカスだからバイ菌は死滅しているのであろう。
 トイレットペーパーを売っていないと聞いていたのでトイレットペーパーは山ほど日本から持参した。石鹸も日本から薬用石鹸を沢山持参して、使用人にも何かをする時には必ず事前にその石鹸を使って手を洗うよう厳命した。もっとも、後から考えればその石鹸は多分横流しされて市場で売られていたことであろう。薬用の消毒液も持参した。これは手術にも使える、蒸留水で希釈して使う強力なものであったが、流石に殆ど出番はなかった。とにかく、未だ天然痘は当時のバングラデシュでは現役であったし、衛生面には殊の外気を遣ったのである。それ程気を遣っていても、3年半の駐在期間中に赤痢には何度か、多分何れもアメーバ赤痢なのだが、それとコレラにも一度罹ってしまった。コレラは事前に習っていたように、教科書のように見事な米の磨ぎ汁様の白濁した便が出た。また、時々原因不明の高熱が出た。しかし、後に述べるがバングラデシュでは米国人の歯医者と、予防接種の判を貰う以外は一度も医者のお世話にはならず、病気や怪我は全部自分で治した。
 ある時、使用人にもトイレットペーパーを使わせようと思い立った。流石にトイレットペーパーは日本からわざわざ持って来たものを使用人に使わせるのは勿体ないし、嵩張るので補充も大変だから街に探しに出た。何軒か雑貨屋を探したら一応中国製の粗末ながらもそれなりのものを売っている店があった。試しに一つ買って、包装を剥がして中身を品定めしてみたら、一度水に濡れたものを乾かして売っているのであった。水が芯まで透ってしまっているのを乾かしたものだから、紙がくっ付いてしまっていて引き出せない。他のを調べたら、どれもこれも皆同じである。おそらく輸送中にスコールに当たってしまったのであろう。仕方がないので、買わずに家に戻り、勿体ないながらも日本から持って来たトイレットペーパーを少し使用人に分けて、用を足したらこれを使い石鹸で手を洗え、と指示をした。みな浮かぬような、曖昧な顔をして突っ立っている。そのうちに首領格のコックが意を決して、これだけは勘弁して欲しい、気持ちが悪い、自分達はちゃんと水で洗うから清潔である、と言って来た。水で洗う、というのはウォッシュレットではない、手桶で水を汲んで手で洗うのである。大分押し問答をしたが、これだけはどうしてもダメだった。件の店の者も自分で使った事がないから濡れたトイレットペーパーは使い物にならない、という事を知らなかったのかも知れない。
 食べ物は種類がない。パンは不味くて食べられない。粉が悪くて、噛んでいるうちに口の中で団子になってしまい、飲み込めない。僕が子供の頃の給食のコッペパンは相当粗悪だったが、そんなものの比ではない。飲み込めないのである。野菜は種類が非常に少ない。細くて固いニンジン、小さなジャガイモと玉ねぎ、灰汁の強いほうれん草、極端に短い大根、練馬大根をうんと小さくしたような胡瓜、小さな皮の固いトマト、等々、両手にも足りない程である。当時、日本の専門家が来てキャベツや白菜の栽培を指導していた。そう言えばオクラは良く食べた。オクラを英語で「貴婦人の指」と呼ぶのはこの時覚えた。昔の貴婦人の指にはウブ毛が沢山生えていたのだろうか。
 牛肉は何時でもあったが豚肉は回教なので中々手に入らない。魚は保存が悪いので使用人が持って帰って来た時には早や半腐りである。海の魚は滅多に出回らないので、寄生虫が怖くて殆ど魚は食べなかったが、偶にエボダイのような海の魚が手に入る事があり、これは半腐りも厭わず時々食べた。お米は長粒米だが、タイのお米ほど臭くはなく、なかなか美味しかった。料理用の油は現地で売っているのはヤシ油だが、精製が悪く長く食べると肝臓を壊す、と言われて日本製のサラダ油を持って行っていた。水は未だミネラル・ウォーターなどは売っていない時代なので水道を沸かして飲んでいた。
 傑作だったのはコカ・コーラである。東パキスタン時代に既にボトリングの工場があって、そこはバングラデシュになってからも操業を続けていたのだが、コーラの瓶に "This bottle is untouched by hand" (この瓶には手は触れていません)と書いてあったのだ。一本、一本の壜にこんな事がプリントされている事自体、当時の衛生状態がどれほど劣悪だったか想像できよう。しかも工場を一歩出ればそんなことはあり得ないので、誰もそれで安心した訳ではない。