baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 バングラデシュの想い出 〜 (4)

 当時のバングラデシュは完全なドライ・カントリーでアルコール類の入手は表向きは不可能であった。表向き不可能な事には常に裏が付き纏う。一戸建てに引っ越して間もなく、リキシャでアルコールを売りに来る男が現れた。彼は万が一警察に路上で捕まりアルコールが押さえられれば大変な事になるのだが、まともな仕事もなかなか見付からない当時、手っ取り早く金儲けの為にリスクを張っていたのだろう。
 バングラデシュの夏場はとにかく蒸し暑い。夏場は雨期であり、気温37〜8度、湿度100%という日も珍しくない。こういう日にはタバコの箱の外側のOPPフィルムが湿度で延びて皺が寄ってしまう、当時まだ普通に使われていたワラ半紙は湿気でジトッとしてしまい鉛筆やボールペンでは字が書けなくなってしまう、壁に掛けてあるカレンダーは湿気で勝手に丸まってしまう、そんな想像を絶する湿気であった。
 だから僕等としては一番ビールが欲しいのだが、やはりビールは嵩張るので彼等も滅多に持って来ない。偶に持ってくるのは何時も泥がこびりついた缶ビールであった。不思議に思っていたのだが、或る日その理由が分かった。ダッカにはアメリカのマリーン・クラブ(海兵隊のクラブ。一般人はオフリミット)とインターコンティネンタル・ホテル以外、夜外で過ごせる場所がない。畢竟、在外公館ではしばしば外交官同士、あるいはその国の駐在員達を呼んではガーデン・パーティーをしていた。件のビールはそういう園遊会で倉庫から持ち出したビール缶を、大使館職員の目を盗んで庭に埋めておき、後から掘り出して横流ししている物だったのである。在外公館は酒でもハムでも持ち込み自由なので、こういう事も起こり得た。
 酒はと言えば、壜の銘柄に拘わらず何か味が可笑しい。これも暫くしてから分かった事だが、売られている酒は各家庭の主人の寝酒を使用人が少しづつ盗んでは量り売りをしている物だった。だからウィスキーもブランディーも一緒くたのおぞましい飲み物だったのである。そう言われて気付いたのだが、我が家のボトルも確かに減りが早かった。それからは、壜を逆さにして線を引くという、昔の軍人のやり方を真似ることとしたが余り効果はなかった。使用人は巧妙に、微妙に盗むのである。
 ヨーロッパの街には必ず旧市街があり、教会を中心に旧い街並みが残されている。ダッカも同様であった。オールド・ダッカというモスクを中心にした一区画は、全体が市場のような場所で、細い道が張り巡らされており両側には小さな個人商店が並ぶ。そこを車と牛車とリキシャと溢れんばかりの人が往き来する。その一角にはガンジス河の支流が流れていて、インドの風景のようにバングラデシュの人達もそこで洗濯をしたり沐浴をしたりしている。旧い時代の面影を残しながらも活気に溢れた、僕の好きな場所であった。だから、日本から来た人が観光を所望する時はオールド・ダッカを案内するのが僕の定番コースであった。しかし余りの雑然とした汚さに、大部分の人は車から降りるのを嫌がった。
 確かに当時のバングラデシュは汚かったし、それを裏付けるように病気が多かった。細菌の博物館と言われるほど、世界中の細菌がバングラデシュでは採集出来たそうだ。それだけではない。僕の友人の息子は原因不明の内出血と発熱で、日本に連れて帰り医者に診せたが原因がどうしても分からない。分からないから治療できない。困り果てていた処にある人の助言でバンコクの病院で診察を受けた。その結果は寄生虫との診断で、寄生虫の駆除薬を飲ませたらあっという間に治ってしまった。日本では当時ですら、既に寄生虫の症状に出会った医師がいなかったのである。
 医療は劣悪であった。医療機器もまともに揃っていないから診断もいい加減にならざるを得ない。お腹が痛いから医者に行くと、散々問診したあげくに「腹痛だ」、との診断が下される。これでは行っても行かなくても同じである。注射針の使い回しも未だ普通であった。コレラの予防接種は年に一度しなければならない。有効期限が切れる度に国外に出る訳にもゆかないので、現地の医者に接種して貰わなければならないのだが、針の使い回しは絶対に厭である。そこで正規の料金を払って接種の証明だけをして貰うこととした。これは、向こうも喜ぶし僕も痛くなくて重宝する方法だった。コレラ菌には5種類ほどあり、その全てをカバーしている予防接種はなかったので、予防接種をしていても罹る時は罹るのだった。