baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 バングラデシュの想い出 〜 (5)

 当時のバングラデシュは未だ産業らしい産業もなく、世界銀行アジア開発銀行の低利融資、先進国の援助で糊口を凌いでいた。産業といえば唯一ジュート生産があった。しかし、当時すでにジュートは徐々にプラスチックに代替される衰退産業であった。日本の米袋は、品質チェックの為に外から竹べらを袋越しに突っ込んで中身を取り出して品質を検査していたので、プラスチックでは袋が破けてしまうという事で未だジュート製と決まっていたが、それも時間の問題である事は明らかであった。
 そんな状況であったから経済活動らしい活動は農業以外には何もなく、世界でも最貧国と言われるほど貧しい、国民全般に栄養状態の極めて悪い国であった。また衛生状態も劣悪で、天然痘の患者が高熱で朦朧としながら、全身から膿を流しながら街中で物乞いをしているのとすれ違ったり、洋服を引っ張られて何気なく振り向いたら上唇や鼻の落ちたライ患者が手を出している、などという事もあった。朝方出勤途上に路傍で死んでいるホームレスを見るのも一度ではなかった。
 と、若い僕には相当ハードシップの高い駐在であったが、良い思い出も勿論ある。中でも忘れ難いのは、当時ドイツが酪農の技術指導をしていて、ドイツ人の技術者がダッカ郊外の農場に駐在していた。その中の、あるドイツ人の奥さんが公子さんという日本人で、小学校6年生位のお嬢さんがいた。そのお嬢さんはドイツではヴァイオリンを習っていたのだが、バングラデシュでも続けさせたいと先生を探していて、その話がたまたま僕の所に回って来た。僕も当時は未だヴァイオリンもそこそこ弾けたし、何よりも無聊だったので教えて上げる事にした。毎週末、その農園に出張教授で、レッスンの後は何時も貴重なビールと美味しい公子さん手作りの夕食をご馳走になった。農園でご主人が撃って来たウサギを公子さんがさばいたシチューが出て来た事もあった。日本人女性なのにウサギが捌けるとは、と吃驚した。
 ある時、農場内の子牛が襲われるのでジャッカル狩りをするのだが、一緒に来ないかとご主人に誘われた。僕は当時護身用にピストルと散弾銃を持っていたので、散弾銃を持って参加させて貰った。夜も遅くなってから、ジープで出発する。ジープは屋根なしのウィリーで、フロントガラスも前に倒して何時でも撃てる体制で牛の放牧地を走り回ってジャッカルを探す。真っ暗闇をヘッドライトの光だけが頼りだ。暫くすると、100m位前方で青白く光る小さな点が見えた。それがジャッカルの眼だった。そっとジープで距離を詰める。ジャッカルは意外にも、一目散で逃げる訳でもなく、少し走っては立ち止まり、振り返ってこちらを見る。距離が50mくらいまで詰まったところでジープを止めて、青白い光を狙って撃て、と言われ、言われるままに撃った。とたんに青白い光は飛びあがって何処かへ走って行ってしまったのだが、当たったと言われた。ジープで近くを探したら、少し離れたところで息絶えていた。赤犬かキツネを大きくしたような動物だった。獣の匂いがした。
 大きな家に単身住まいで、外食するレストランも皆無に近く増してや友人の家を訪ねる他は夜出掛ける所もない毎日の中で、この週末のレッスンは実はとても楽しみだった。
 バングラデシュの人達は精悍な顔付きをしている。英語はインド英語で早口だ。また、少し押しつけがましい表現をするので、物言いが高圧的に聞こえる。そんなで、当初は余り取っ付き易いとは思えず警戒感が先行していた。しかし、段々知りあってみると実は非常に素朴な人達であることが分かって来た。顔つきは同じだが、インドの人達よりも遥かに純朴である。長い間イギリスの圧政下にあったので、確かに物言いは僕達日本人とはかなり違うのだが、それは歴史の違いに由来するものであって人間性に由来するものではないことも段々に分かって来た。そんな事が分かって来ると、こんなに愛すべき人達もいないと思えてくる。
 35年も前の、独立直後の混乱期のことだから、生活面では正直なところ良い思い出は余りなく、今でこそ笑い話のような、でも当時は血を吐く思いの駐在生活であった。しかしそんな事とは裏腹に、知らぬ間にバングラデシュが好きになっていた。今でも郷愁がある。東京のインド風レストランなどでバングラデシュの人に会うと無性に嬉しくなり、ついつい片言のベンガル語を喋ってみたりしてしまう。彼等も異国の地でバングラデシュを知っている人間に会うのは嬉しいのだろう、ひとしきり昔の、それこそ彼等が生まれる前のダッカの話などを披露して長話になり、彼等が気の毒にも店のマネジャーに怒られたりしてしまう。インドネシアに駐在するまではバングラデシュは僕の第二の故郷だと公言して憚らなかったものである。