baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 極刑 〜 恩赦なしの懲役百何十年を

 最近世の中が殺伐になって来ていると思うのは僕が年を取ったせいなのだろうか。少し前までは残忍な犯罪はやくざか外国人の犯罪に多かったと思っていたのだが、最近は普通の日本人にも残虐な手口が拡がっているように思う。殺人事件が増えた。また、バラバラ死体遺棄事件が珍しくなくなった。夫を妻がバラバラにしてゴミ捨て場に捨てたり、アパートの住人が隣人を殺害して風呂場で遺体をバラバラにしたり、暴力団でもない人間が遺体を分解する。人を殺して家に火をつける。かと思えば、誰でも良いから殺したかった、だとか死刑になりたいので人を殺した、とか、もう成人の知能とは思えない理屈で人をあやめる輩がいる。弁護団は直ぐに責任能力を言い出すが、映像を見る限りは普通の大人である。
 他方、被害者側は以前よりも極刑を公然と口にするようになったと思う。罪を憎んで人を憎まず、ではなく目には目を、歯には歯を、である。確かに刑罰は歴史的には犯罪人を苦しめ懲らしめると同時に、同様の犯罪を抑止するものであった。例えば、イスラム教の法、シャリアーを守る中東の国々では、公開斬首や、石打ちの刑−これは女性の姦通罪に対する刑罰だが、広場で群衆に絶命するまで石をぶつけられる、一種の公開処刑−だとか泥棒の手を切り落とす、詐欺の男の舌を抜く、などの刑罰が未だに執行されている。数年前にサウジアラビアで執行された石打ちの刑の写真を見た事があるが、死に行く若い女性の姿が忘れられない。十戒で有名なモーゼの頃の一番厳しい刑罰は、手足を順番に一つづつ切り落としてから磔にする刑だったと言う。事実、コーランにもこの刑罰に触れている部分がある。人間の本能は、怒りが強ければ強い程、報復には相手に苦しみと恐怖を与えたいと考えるのであろう。昨今の被害者遺族はより本能に素直に発言するようになったのか。
 僕は臆病である。昔、バングラデシュに居た頃、ジステンパーで瀕死の犬を獣医に持ち込まれ、飼い主の要請なのでピストルで射殺してくれ、薬が切れていて注射では安楽死させられない、と頼まれた。護身用のピストルに装填して消音器代わりにタオルを巻いて、いざ、耳から脳を撃てば良いのだがどうしても撃てない。恐くて撃てないのだ。結局その時は獣医が代わりにあっけなく射殺してくれた。僕はと言えば眼をつぶってそっぽを向いていた。
 そんな臆病な僕だから、死刑について考えるといつも恐怖が先に立つ。アムネスティのように、犯罪人にも人権を、などという考えは僕には全くない。そもそも死刑を宣告されるような犯罪人は一人ならず他人をあやめているのだから、人権など考えてやる必要はないと思う。そんな資格はない。いや、既に人間ではない。たんなる哺乳類に過ぎないと思う。
 ただ、哺乳類と雖も生あるものを殺すのは、臆病だからなのかも知れないが、何とも割り切れないのである。死刑を執行する人も立ちあう人も、幾ら法を守る為とは言え気の毒だと思う。ましてや自分が裁判員になって凶悪犯罪人に死刑宣告をする側になったらどうであろう。現行法であれば避けて通れないのだが、勘弁して欲しい状況である。
 そこで思うのである。終身刑という曖昧な刑罰をもっと細分化して、極刑では懲役百何十年という間違っても娑婆に出られない懲役刑を作り、且つ、重労働、とか独房とか、30年間接見禁止・差し入れ禁止、発狂しても例外を認めず、等の条件を付け、更に如何なる恩赦であれ対象外、とするのである。僕なら、早く死んでしまいたいと思う様な毎日になるであろう。死刑は、される側はともかく、執行側の人間性を慮ればやはり廃止すべきではなかろうか。願わくば僕に裁判員が回ってくる前に刑法を改正して欲しい物である。