baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ベトナム訪問記 (3)

 ハノイに10日程滞在した後、ホーチミンに移動した。飛行場には自動的にサイゴンツーリストの運転手が、監視役として迎えに来ている。ハノイに比べるとホーチミンには活気と、東南アジア特有の猥雑さがあり何故かほっとした。ハノイでは殆ど目立たなかったシクロ(三輪自転車タクシー)が溢れている。商店も沢山並んでおり、恐らく中国から持ち込んだものであろう、粗末なラジオなども沢山並んでいた。人々はハノイと異なり肌の色が東南アジア系で褐色である。
 ホテルは未だ解放前からあるホテルだけであった。メンテナンスが悪く、相当痛んでいる。僕は、名前は忘れたが、オペラハウスの近くの外観は瀟洒なホテルに宿泊した。ハノイ同様、設備は非常に貧弱でレストランのメニューも限られていた。しかし従業員は英語も喋るし、非常に愛想が良い。やはり南ベトナム時代の名残を強く残していた。サイゴンツーリストの監視役の運転手も非常に愛想が良く、親切である。愛想もこそもないハノイの運転手とは雲泥の差である。英語も出来る。訊けばやはりサイゴンホーチミンの旧称)、自分で敢えてサイゴンと言う、出身であった。
 ホテルには、ハノイ同様友好商社の駐在員が沢山いた。夕食に、最上階にあるレストランに上がって行くと、日本人と見て招かれた。日本人が一つのテーブルに5〜6人固まっている。10日以上も、朝、昼、晩と一人で食事をしていたので、招かれるままにそのテーブルに着いた。すると、テーブルには日本から持ち込んだ佃煮や振りかけ、福神漬け、ラッキョウ、更には牛肉の大和煮だとかさんまの味付けだとかの缶詰が開けられて並んでいる。メニューが限られていて味気ないので、各社が仕事を離れてこういう形で食べ物を持ち寄って食べている、との説明であった。ハノイのような堅苦しさがないのが、駐在している日本人にも影響しているようで、皆さん大らかであった。僕は手ぶらだったので遠慮して手を付けないでいたら、同じ日本人なのだから遠慮は無用、一緒に食べようと勧めて貰い、ハノイで毎日鶏のソテーか魚のフライばかり食べていたので有難くお相伴に預かった。あの時だけは共産主義も悪くないと思った。次回の出張からは、僕も食料を持参して夕食時だけは共産主義に身を投じたのは当然での事であった。
 ホーチミンに来て気付いたのは、南の出身者は北の人を嫌い、南ベトナム時代を懐かしんでいたことだ。運転手も二日目位から、打ち解けて北の悪口を言い始めた。南では通訳が付かなかったのだ。皆、ある程度は英語が通じたのである。ある日、旅行証もないのに飛び込みである工場を訪問した。本当は許されないのであるが、運転手が、面倒だから行っちまおう、と連れて行ってくれたのだ。ところが驚いたのは、それまで工場を訪問する時は必ず、工場に近付くとみるからに公安の人間と思しき人間が道端に、それこそ角々に立って監視していたのに、その日はその手の男が全く居なかったのである。公安は常時見張っているのではなく、僕のような危険分子が行動する時にわざわざ見張っていたのである。またその為の旅行証だったのである。そして工場に着くと、工場側は大慌てである。30分位も待たされて、やっと応対の人が出て来たが、総務か何かの若い人で、仕事の話は全く出来なかった。やはりちゃんとアポを取って正規に訪問しないと、相手も恐がって応対してくれない事が分かった。
 友好商社の人に教えられて、勉強の為に、ホテルの近くの、大きな別のホテルの地下にある、ホーチミンで唯一のナイトクラブへ行ってみた。パスポートチェックなどを経て店内に入ると、物凄く薄暗い。入った瞬間は自分の足元も覚束ない程である。バンドが入っていてダンスフロアがあり、そこだけが少し明るい。席は全て背の高いボックスシートで、見るからに南時代の遺産である。昔は米兵で溢れていたのであろう。暫くするとアオザイの女性が自動的に横に着く。英語が通じる。喋っているうちに、やはり北の悪口を言い出す。解放から9年、いきなり共産主義を押し付けられて戸惑っていたのである。そのうちに彼女が急に緊張して、ママさんが来る、彼女はハノイから派遣されている監視役だから、自分が喋った事は絶対に彼女には言わないでくれ、と懇願された。妖艶なママが来て向かい側に座る。この人も英語が出来たので、暫くお喋りをした。なるほど、監視役である。女性の監視だけではなく、僕を探りに来たのである。諜報機関の人間であろう、目付きから違う。愛想は良いのだが、冷たい、人を射るような目をしていた。少し横柄なママが行ってしまうと、横の女性が明らかにほっとしているのが手に取る様に分かった。未だ南北の人達は融合しておらず、囚人と看守の趣であった。
 街にはハノイよりも遥かに多い土産物屋が並んでいた。但し、売っている物は限られている。店番は僕が買い物をする気がないと見ると奥に呼び込んで外貨交換を持ちかけて来た。これもハノイではなかった事である。ハノイの3倍のホテルの正規レートから、更に3倍位のレートを言う。交渉すればもっと下がったと思う。即ち、闇レートはハノイの正規レートの10倍か、それ以上にもなっていたのである。街を歩けばシクロが寄って来る。後から分かったのだが、当時のシクロの運転手の三分の一位は公安だったのだ。乞食も多かった。ホーチミンの乞食はバングラの乞食と違ってしつこく、何処まででも付いてくるのであった。店に入っても店の外で待っているのである。別の言い方をすれば、当時はその位カモになる外国人が少なかった。更に、乞食の中にも公安が混じっていたのを、やはり後から知った。
 ベトナムドイモイを境に大きく変わった。特にホーチミンは、人々も明るくなり、益々活気に満ち、立派なホテルが建ち、レストランも外国人が入れる店が幾らでも出来た。メニューも豊富で食事も美味いし、ジャカルタバンコクに行くのと何ら変わりはなくなった。しかし、1984年は未だこんなだったのである。その後の10年で、既に隔世の感であった。最近は暫く行っていないが、北京や上海の変化を見るにつけ、ホーチミンもまた一層の変化を遂げていることであろう。