baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 鳩山首相の所信表明

 今日から臨時国会が始まった。鳩山首相所信表明演説を聞き正直なところ大変失望した。今まではこの1ヵ月強、小沢一郎という重石があって思うように発言出来ないのかと思っていた。ところが所信表明演説でも、全く具体論がなく理想ばかり聞かされた。鳩山首相の実力はこの程度であったか。
 「友愛」「変革」「架け橋」、色々な標語が出て来た。標語は素晴らしい。民主党マニフェストと一緒で、誰もそれだけで真っ向から否定するような内容ではない。そんな社会が実現出来たらどんなに素晴らしいかと誰でも一瞬思う様な、バラ色の標語と言えよう。しかし、そこには具体論が全くないのである。理想と現実の乖離はよく分かる。しかし、理想を実現するのに必要な具体的なプロセスの説明がないので、それに伴う国民が負担すべき対価がまるで見えて来ない。財源の問題に目をつぶり理想論だけで票を集めたマニフェストと一緒である。いざとなれば国民にどれだけの負担が回ってくるのか、95兆円の来年度予算の概算要求と同じ轍である。それでは子供の空想と一緒ではないか。マニフェストの時は票集めのタクティックスかと思い、国民も巧妙に騙されたと思った。しかし国会でまで同じ次元の発言となると、そう呑気にも構えていられない。増してや、首相は国連総会でもアセアン会議でも、同じ次元の理想論をぶち上げ、インドネシアには40億ドルの借款を約束したり、と自縄自縛の末、一切具体論には触れなかったのである。だから各国とも総論賛成である。反対する理由がなければ持ち上げるのが外交辞令である。一国の総理大臣の演説としては何とも中身が伴なわない空しい内容であったと思われるのだが、今日もその延長であった。
 中でも最も危惧を抱いたのは、職に就けづに自殺した青年の母親の話からいきなり、弱者を救う社会と飛躍した時だ。遊説の途中で直訴された老婆の話で、どうして青年が自殺したのか、どうして職に就けなかったのか、首相が検証したとは到底思えないが、世の中にはもっと厳しい境遇でも自殺もせずに頑張っている青年が、自殺する青年の何千倍も何万倍もいるであろう。一国の首相たるものが、そんな感傷だけで、物事の本質も見ずに政策を決めると思うと背筋が寒くなる。そんな情緒的で説得力のない話を平然と、国会の冒頭の所信表明演説ですること自体に唖然とする。鳩山首相は政治家としての資質に欠けているのではないかとさえ危惧してしまう。
 どうも首相の目指す国家は社会主義国家のように思えて来た。しかも、そこには民主党の偏見が溢れている。高速道路だけを無料化する事も然りだ。昨日もバス会社が連合して高速無料化を止めて欲しいと国土交通相に嘆願したそうだが、受益者負担の原則を撤廃して公共料金制度を社会主義化するのであれば、交通に限って言っても高速道路に限らず高速バスも鉄道もフェリーも飛行機も、全て無料化し、経費は国が税金で丸抱えしなければ不公平なのである。我々は何に乗っても、幾ら高速を走っても無料な代わりに、実際の使用頻度とは無関係に全員割り勘でその分の税金を納めるのである。使わない人は割り勘負けするだけである。米作農家の所得保障についても、どうして来年度は米作農家だけなのか。納得のゆく説明もなく税金を投入されても、他の農家は元より、我々納税者も訳が分からない。
 誰もが住める社会というけれど、自助努力のない人が住める社会が良いとは思えない。先ず、自助努力がなければならない。働けるのに働かない人を社会で連帯して面倒を看る必要はない。努力しているのに職に就けない、或いは年齢とか体のハンディキャップとかの客観的に受け入れられる理由でもはや努力も限界に来ている、という人達を社会で連帯して面倒を看る事に何ら反対するものではない。しかし、努力を放棄している人まで税金で面倒を見る必要はない。人間は性善ではない。怠惰な人も、不誠実な人も幾らでもいる。社会主義が不効率の代名詞となり、経済は停滞し、立ち行かなくなったのは誰もが見て来た歴史的事実である。そして社会主義国は一様に、ある国では社会主義が崩壊して開放経済国家として再生し、ある国では市場経済に移行して社会主義の閉塞から脱却した。鳩山政権は今、正にその閉塞に潜り込もうとしているように見える。
 鳩山総理には、理想論だけに走って自己満足する事は捨てて、一国の宰相としてもっと現実的な議論を導いて欲しい。そして問題の先延ばしは止めて、しっかりとした指導力を発揮して目前の懸案を片付けて行って欲しい。小沢一郎への遠慮があるのは分かるが、優柔不断だけでは国内はもとより海外は絶対に納得しない。