baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 続発する凶悪犯罪

 連日厭なニュースが続く。しかも陰惨な事件ばかりである。少し前には横浜港で男性二人のバラバラの遺体が発見された。千葉では女子大生が殺され、家ごと焼かれた。鳥取では男性三人の連続殺人と思われる事件。直近では島根で女子大生が殺され、バラバラにされて広島の山の中に遺棄された事件と、岡山で男女三人が死亡した事件。
 岡山の事件は少し性格が違うかも知れない。が、どうしてこうも簡単に人の命を奪い、更にはバラバラに切断したり、家ごと丸焼けにしたり出来るのだろうか。瀕死の犬の安楽死すら正視できない僕には(10月15日「〜恩赦なしの懲役百何十年を」)、人間技とは到底思えない。どんな神経の人間なのだろうか。どうしたらそんな神経の人間が出来るのだろうか。
 テレビゲームの影響だという説がある。ゲームで殺戮を繰り返すので、現実での殺戮に鈍感になってしまうという。一面分かり易い説明だが、現実にはテレビ音声とは異質の生々しい音があり、出血などのリアルな視界がある。さらに臭覚に対する刺激や、作業する手にも反応がある。そんなに簡単に現実とヴァーチャルな世界が混同され得るとは俄かに信じ難い。
 僕はやはり人格形成期の教育と、昨今の生活環境が、生まれつきそういう素質のある人間を簡単に性格異常者にしてしまうのだと思う。先ず、外界と自分とを遮断してしまい、周囲に気を配らない風潮がある。イヤフォンで耳に栓をして携帯メールを見ながら周囲には無関心に街を歩く。傍は迷惑なのだが、同年代の人はお互い様だから良いのだろうか。だが、これは明らかに躾が悪い。公共の場では周囲に迷惑を掛けないと言うのが人間としての躾の原点であると思うが、その躾が到底されているとは思えない。他人の存在が無視されているから、自ずと極端に自己中心的になる。自分と外界が遮断されているから、恥じらいもない。電車の中での女性の化粧がその典型である。そして、電車の中での飲食、大欠伸、道路での歩き食い、ラッパ飲み、何れも厚顔無恥の為せる技である。何れも周囲の眼を全く無視して意識していないから、いとも容易く厚顔無恥に自分本位の振る舞いが出来るようになるのであろう。
 周囲の無関心も宜しくないと思うのだが、この頃は無関心にならざるを得ない面もあり、これもまた更に問題である。例えば電車の中で傍若無人の振る舞いを注意した中年男性が逆切れした青年に撲殺された、などという記事があると、例え稀な例ではあってもうっかり注意するのが憚られる。それでも僕は時々我慢できずに注意してしまう時があるのだが、大体向こうは自分の行為が迷惑だったことに余り気付いていない事が多く、直ぐに直してくれている。その時にちょっとお詫びを言う人が半分いるかどうか、あとは極まりが悪いのか迷惑なのか良く分からないが、多少不貞腐れる者もいる。でも幸い、未だ逆切れされた事はない。学童にも、大人として注意すべきときが屡あるが、学童にはうっかり声を掛けると変質者と間違われて恐がらせるといけないので敢えて自重している。昔は大人がみんなで子供を育てるという意識があり、悪戯が過ぎると知らない人にも良く注意されたものである。今は、現実に幼児の誘拐殺人などがあるのだから、こればかりは致し方が無い。しかし、「みんなで子育てする」というのは、なにも税金で学費を賄うという民主党の言う社会主義的発想ではなく、本来は次代の国を背負う子供たちを立派な大人に育てる為に、周囲の大人が分け隔てなく見守り、躾けるという事だと思う。
 より良い日本を作る為に、先ずは凶悪犯罪者を捕まえて責任を取らせる事を通じて犯罪抑制を図らねばならないが、周囲の人に迷惑を掛けない、常に周囲の人を慮る、というマナーを子供には元より青年にも徹底して躾ける事が今こそ大事だと思う。大人が反面教師にならぬよう自らを厳しく律するのは当然の事である。物凄く遠回りの、「風が吹けば桶屋が儲かる」の類の話に聞こえるかも知れないが、僕はこういうマナーが浸透すれば徐々にお互いが周囲に気を配り、畢竟自己中心的な度合いも下がり、思いやりの気持ちも芽生え、社会が少しづつ潤滑されると思うのだが。