baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 カンボジア紀行

 1996年に、ポルポトとの内戦が終わって間もないカンボジアを、ミッションの一員として訪問した。未だ内戦で疲弊しており経済活動もこれからという時期であったから大変歓迎された。
 当時はフンセン首相とシアヌーク殿下の双頭体制であった。実質は既にフンセン首相が握っていたが、未だシアヌーク殿下にもそれなりの気を遣っていたのである。当時のフンセン首相は、引き締まった体に精悍な顔が載っており、眼光鋭く、いかにも内戦を戦い抜いてきた生え抜きの軍人であった。顔に弾傷があったのが印象深い。握手は力強く、英語は堪能であった。一方のシアヌーク殿下は手はマシュマロのようで、箸より重い物を持った事が無い手とはこういうものだろうと思ったものである。何とも物腰の柔らかいソフトな話し方なのだが、眼は意外にも我々一同を抜け目なく値踏みしていた。最近のシアヌーク殿下はニュースにも出て来ないのでどうなったか分からないが、フンセン首相はすっかりふくよかに丸くなり、顔も目付きも人が違うように穏やかになっているようだ。
 先方の案内でプノンペンにある戦争博物館に案内された。ここはポルポト政権時代の200万人に及ぶ大虐殺の中心であった建物を博物館にした場所である。庭には当時の拷問器具がそのまま展示されており、館内には夥しい髑髏と犠牲者の写真、拷問器具、独房などが展示されていた。ポルポトは虐殺する前に一人一人の顔写真を撮影していたらしく、老若男女の夥しい犠牲者の顔写真が展示されている。子供もいる。いくら戦時中とはいえ酷い事をしたものだ。独房はと言えばトイレもなく、幅60cm、奥行き120cmくらいの狭いレンガで囲われた窓もない仕切りで、横にもなれない広さである。独房は二階にあったが、未だ無数の霊魂が宙を彷徨っている様な、異様な雰囲気であった。余りの凄惨さに、一刻も早く退散したかった。
 当時は既に内戦は終わっていたが、内戦時に敷設されそのまま遺棄されている地雷がカンボジアでは毎日のように犠牲者を出していた。1,000万人の人口に対して1億個の地雷が遺棄されていたそうである。我々も絶対に道から外れた所を歩いたり、勝手に原っぱや木の繁ったところに入り込まないように厳しく注意された。そもそも戦争がいけないのだが、こういう陰険な武器は本当に快しからんとの思いを新たにしたものである。
 カンボジアと言えばアンコールワットである。我々は休日を利用してアンコールワットのあるシェムリアップへ行く事になった。未だ飛行機が便利ではなく、車で行く事になったが、政府が護衛を付けてくれるという。途中には当時はまだポルポトの残党がゲリラ活動をしているとの説明であった。護衛は機銃を据えたピックアップと6人位の兵士であった。山賊除けだったのだろう。

 お目当てのアンコールワットは壮大な建造物であった。仏教遺跡というが、初めはヒンドゥー寺院として作られたそうでどこかヒンドゥーの香りの残る遺跡である。尖塔もインドネシアヒンドゥー遺跡、プランバナンのそれと酷似している。とにかく広大で、とても一日観光では見切れるものではなかった。残念ながら、ポルポトに追いやられた共産主義のクメールルージュが大分破壊したようで、当時はかなり荒れた状態であった。共産主義者とかタリバンとか、歴史を否定するのはご自由だが人類の歴史的遺産まで破壊するのは困ったものである。素晴らしい建造物であったが、僕には初めから仏教遺跡として作られ、大きさも程良いボロブドゥールにより親しみが感じられるのである。

 という訳で僕は世界の三大仏教遺跡の二つまでは見学しているが、ミャンマーバガン遺跡だけは未だ訪れたことがない。ある意味でボロブドゥールとアンコールワットは規模こそ違え同じ種類の建造物と言えようが、バガンは写真で見る限りは、広大な敷地にパゴダが林立していて趣の全く異なった遺跡のようである。