baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

事業仕訳のパワーハラスメントと全共闘運動

 科学技術関連予算をバサバサ切り落とした事業仕訳に対して大分批判が出ている。与党内でも、先日の日曜討論での菅副総理のテレビ発言を皮切りに、大分ブレーキを掛ける発言が目立ち始めた。先日の僕の意見とまるで同じ事をノーベル賞受賞者や宇宙飛行士が述べていたので溜飲が下がった。僕が幾ら書き募っても所詮はゴマメの歯ぎしりだが、ノーベル賞受賞者や現役の宇宙飛行士が言うと格が違うからである。
 ちょっと美形の顔で議員になったような元グラビアアイドルに、ヒステリックに断罪される官僚の悔しさも推して知るべしだが、元々有権者を意識した票集めのパーフォーマンスに過ぎない筈なのに、今の事業仕訳にはこの上なくパワーハラスメントを感じる。主役側は定めし気持ちが良かろう。何を言っても咎められないようである。逆に防戦一方の官僚は何を言っても上げ足を取られ、結局は元々ありきの結論に強引に持って行かれる遣り方に、僕の学生時代の全共闘運動に通じるものを感じた。
 1968年頃から、日本の大学を全共闘運動が席巻した。当時中国では文化大革命が真っ盛りで、紅衛兵が文化人やブルジョアと断じられた人達をを捕まえては拷問に等しい公開尋問を行い、自己批判をさせる事が大流行した。その挙句に多くの人が命を奪られた。それと同じ事を日本で学生が大学内で始めたのである。公開尋問は、実体は拷問であり、尋問に対して何を答えようと結論ありきの尋問だから、最後は自己批判しろという強引な断罪、と言うよりは暴力に裏付けられた公開リンチであった。公開尋問が休みなしに48時間続けられることもあった。尋問側は適当に入れ替わるのだが、答える側はトイレにすら満足に行かせて貰えないのである。全共闘は独自の理論と称するものを持っていたが、所詮は暴力共産革命を信奉する気狂い集団だから、一般人の常識的な理屈とは全く次元の違う一方的な狂信である。何を言っても受け入れられる筈はなかった。
 僕も大学に入った頃は、インフルエンザと同じ、誰でも一度は罹る病気でマルクスエンゲルスの理論に共感した時期がある。訳も分からず資本論も読んだ。ゲバラの本も読んだ。そんな時に全共闘運動が湧き起こり、大学が封鎖された。よその大学から、本当に凶暴な中核派革マルの戦闘員が、釘を沢山打ったゲバ棒や鉄パイプを手にやって来て他人の大学に立て篭もった。僕には踏み絵だった。僕は本当に共産主義を信奉出来るのか、今の安穏な生活を捨てて革命に身を投じられるのか。未だ若く純真だった頃の自問自答である。答えは簡単だった。「無理」である。自分が出来ないのなら、共産主義者に中途半端に加担するのは罪悪である。その日から僕は全共闘と真っ向から対立し、ゲバ棒で殴られ、屋上からレンガを投げつけられたりバリケードの中から消火器を掛けられたり、「殺せっ」と集団で追いかけられたりするほど反全共闘運動をやり、新聞にも「良識派の学生」として載った事がある。かと言って、盾の会のような右翼団体に与した訳ではない。自分の信条に従っただけで、自分ではリベラルだったと今でも思っている。教授会には授業再開を迫り機動隊導入を陳情し、学外に整列する同い年ぐらいの機動隊員に「ご苦労様」などと声を掛けて怪訝な顔をされたりした。当時学生は機動隊員の敵だったからである。屋上からの投石で死亡したり、火炎瓶で火だるまになった機動隊員がいた時代である。
 そんな経験をした僕が見ると、今の事業仕訳の遣り方は全共闘とまるで一緒である。与党内部にも、若造共に遣りたいように遣らせて後は政治的に決着させようと言う機運があるのが分かったので少しは救われるが、地滑り勝利の衆院選の余勢でパワーハラスメントをするのは如何なものであろうか。それと小沢一郎は遅刻にうるさいだけでなく、もう少し若い議員に言葉遣いや礼儀作法を教授されたら如何なものであろうか。
 それにしても、民主党に遣りたい放題に遣られている対極の自民党が何時まで経っても無策で情けない。二大政党による政治、という理想がちっとも現実味を帯びて来ないのが淋しい。