baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 トヨタのリコールに思う、謝罪に対する文化の違い

 米国下院の公聴会トヨタの社長が呼び出され、言うべきは主張しながらも率直に謝罪した。8時間もの長時間に亘る聴聞だったそうで勿論僕は詳細を見聞きした訳ではない。しかし、その後の報道を見る限り謝罪がそのまま受け止められたという事ではなさそうである。そして、その後のトヨタの従業員との会では思わず感極まって涙を流してしまった豊田社長に対して、米国メディアは辛らつな論評を加えたそうだ。その足で飛んだ中国では、真っ先に日本式に深々と頭を垂れて詫びた姿がニュースに流れていた。
 今回のトヨタ車のリコールについては米国と中国では背景が全く違うと僕は思っている。米国は多分に政治的な日本バッシングであり、米国自動車業界が背後で後押ししているのではないかと言う事は本ブログで何度か書いた。また、一般の米国人は知りもしないだろうが、昨年来普天間基地移設問題を苦々しく思っている米国政府が敢えてジャパンバッシングを放置している側面もあるであろう。一方中国は、急激に台頭してきているナショナリズムと、第二次大戦以降未だに尾を引いている反日感情が事態を殊更大きくしているだけで、米国の場合とは根が違うと思う。
 ただ僕は何れの場合にもトヨタ社長の誠意は誤って受け止められてはいないかという危惧を抱いている。そもそも何はともあれ謝罪する、先ずは「ごめんなさい」と言うのは日本位ではなかろうか。日本では、子供の頃から言い訳をすれば怒られ、先ずはごめんなさいと言えば赦される習慣がある。あれほど謝っているのだからもう赦してやろう、という文化である。しかし外国にいたら「ごめんなさい」という言葉はむしろご法度に近い。余程一方的にこちらに非があり議論の余地がないぐらいでなければ「遺憾」とは言っても直接的な謝罪はしない。遺憾という言葉には、客観的で、起きた結果は気の毒だけれども自分は直接関係ない、というニュアンスがある。
 この傾向は被植民地では一層顕著である。19世紀から20世紀にかけて植民地となった経験を持つ民族は、まずもって謝らない。言い訳を重ねて言い逃れをしようとする。日本人には慣れるまでは耐えられない往生際の悪さだが、英国人、フランス人、ドイツ人、スペイン人、ポルトガル人、オランダ人、アメリカ人、何れも被植民民族が一旦自らの非を認めれば許すどころか即刻断罪する人種である。そうであるから、過ちを犯した方は内心はしまったと思っても生死を賭けて必死に言い逃れをするしかない。間違っても非を認めてしまえば、良くて鞭打ち、悪ければ死罪である。
 こういう文化の人達に、申し訳ありませんでした、ごめんなさい、と言う事は即ち自ら非を認めてしまった訳である。ご迷惑を掛けてすみません、というレベルでは受け止めて貰えない。アメリカではこれから訴訟が多々出て来るであろう。謝った、非を認めた、ならば例え実害はなくても何がしかは弁償せよ、という訳で、謝ったからもう許してやろうなどという発想は先ず出てこないのではなかろうか。
 中国も非植民地の歴史があるから、余程の非がない限りは謝罪するという文化はない。ただ戦時中からの屈折した対日感情があるので、中国ではいきなり頭を垂れた効果はそれなりにあったようである。このまま上手く収斂してくれれば良いのだが、どちらかと言えばこのまま収斂すればそれはむしろ怪我の功名であって、車の欠陥自体はそれ程深刻な問題にはなっていなかったという事であろう。本来は、やはりあそこまで頭を下げるのは却って誤解を招く結果になりかねなかった。
 多国籍企業となったトヨタに僕程度の海外知識がない筈はないから、米国でも中国でも熟慮の上のパーフォーマンスであったのだろうが、そうは思いつつも何とも危うさを感じるのである。世界に冠たるトヨタでなければ、もっと顕著に火に油を注ぐ結果になっていたかも知れない。