baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 小唄の発表会

 識り合いから小唄の発表会の案内を貰った。その識り合いが小唄をやっているというのも初耳であった。大体この識り合いは最近熱海に瀟洒なカフェテリアを開店したばかりである。案内状を見る限りは、趣味の良さそうなこじんまりとした、見るからに洒落た店のようである。そんなカフェテリアのオーナーと小唄と言うのも、何だかミスマッチではないかと訝しい。
 そもそも僕は「日本の伝統」などと偉そうを言うわりには小唄、端唄とはおよそ縁がなく、残念ながら花街とも縁がない。子供の頃には柳家三亀松という寄席芸人の都々逸と三味線が好きだったのだが、何故か母親が目を顰めていたのが記憶に残っている程度である。そして、小唄の師匠といえば根岸か谷中の別宅に婆やと二人暮らしの、小股の切れあがった粋な若い女性と相場が決まっている。一度拝んでみたいではないか。
 そんなこんなに、識り合いのお手並と三味線や小唄にも純粋に興味があったので、ブラリと覗きに行ってみた。識り合いからの案内状に、浅草一と言われる美人芸技の踊りがあるという殺し文句に惹かれたのもある。正午開演で夕方まで延々とある。落語に出て来る大店の主の義太夫ではないが、素人の小唄をたっぷり半日も聴かされて足が痺れて立てなくなっても困るので、識り合いの小唄に浅草一の芸技が舞う出し物に合わせて夕方から行く事にした。
 入口で貰ったプログラム−恐らく別の呼び方があるのだろうが−には50番の出し物、一度に二曲唄う人もいるから恐らく70曲くらいの小唄の歌詞が全て載っている。これが分かり易くて良かった。何となく隠微な香りはしていた小唄だが、その唄の内容をしかと理解して聴いた事は一度もなかったから今日は大いに勉強になった。しかし歌詞を100%理解したかと言えば、これまたとんでもない。僕は日本語には通常の常識は持ち合わせているつもりである。特段秀でてはいないが、かといって一般に劣る事はないと思っている。
 その僕が理解できない言い回しが随所に出て来る。先ず、よく分からない名詞がある。また名詞が指す物は理解しても、その物にどういう意味があるのかが分からない。更に、その物の意味に掛けた、掛け言葉が分からない。それでも大半が、やるせない、成就の見込みのない大人の恋の唄である程度の事は理解できる。僕の母親が目を顰めたのは三亀松の都々逸だが、小唄でも同様に目を顰めた事であろう。それにしても、奥行き深い間接的な表現でありながら微妙な心情をこれでもかと伝え掛ける、日本語の言語としての完成度に改めて舌を巻いた。
 唄の内容がそんな調子なので、舞台は何とも妖艶な雰囲気である。別にそれらしい趣向がある訳ではないのだが、唄い回しや三味線の音、何とも曰く言い難い抜群の間で入る相の手、どれを取っても桟敷で馴染の芸技の酌で熱燗などを舐めながら、出来れば膝枕で聴きたい唄である。そして圧巻だったのが今日の会の先生のそのまた先生の、粋な身ごなし、しゃんと筋の通った背、凛と張りのある唄声、お歳は失礼ながら僕より上だと見受けられたのだが何とも艶っぽい三つ指突いてのご挨拶、そのくせスピーチをさせられたらこれまたモダンで洒脱なスピーチ、日本の伝統芸を極めた人の豊かな人間性と厳しい克己を目の当たりにした。
 ぞくぞくしながら、先生や先生の師匠の上手い小唄や、それなりの素人の小唄を聴き進んでゆくうちに、鳴り物が入り、踊り、即ち浅草や赤坂の芸者が出て来始めた。何れもしっかりメーキャップをしているので、まるで日本人形のようである。顔や首、襟元だけではなく手にも白粉を塗るのは初めて知った。腰や黒眼の使い方はインドネシア舞踊にそっくりである。そして首から上の使い方、目線の使い方は歌舞伎のようである。一曲あった清元では踊り手が科白まで喋ったのだが、そのまた艶っぽい事。そして、語尾の、息を詰めるイントネーションと間が、また何ともいえず日本的で官能的なのであった。
 それにしても、今まで知らなかった小唄の良さに目覚めてしまった。僕はもうこれ以上趣味を広げたら、器用貧乏どころか収拾がつかなくなるから決して首を突っ込んではならないのだが、やはり日本の伝統芸能は素晴らしいと改めて見直した。そして、せめて着物に羽織袴ぐらいは着けてもバチは当たらないだろうと思ったりもした。