baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 歌舞伎鑑賞

 今日は歌舞伎の券を知り合いから貰ったので、建て替え前の歌舞伎座さよなら公演に行って来た。僕は歌舞伎には全く縁がなく、また今まで特段の興味もなかったので、歌舞伎の舞台を見たのは高校時代に学校から観に行って以来であった。切符を貰う事がなければ、これからも自分で行く事はなかったであろう。
 僕が観たのは第二部、出し物は『菅原伝授手習鑑』筆法伝授と、『弁天娘女男白波』の浜松屋見世先の場と稲瀬川勢揃いの場である。歌舞伎座はなるほど入口も狭く、建物の中も通路は狭いし、外観はそれなりの風情があるがやはり時代にそぐわない建物になっていた。それ程旧い建物でもないし、建て替えは時代の流れであろう。館内は満員であったが、意外に若い人が多かった。着物を着た年配のご婦人が圧倒的に多いのだろうと勝手に想像していたのだが、三分の一位は20代、30代の若い人に思われた。歌舞伎役者の人気であろう。
 舞台は想像通り艶やかなものであった。筆法伝授は前半は女性役が沢山出て来るのだが、何処から観ても素晴らしい女性っぷり、しかも着物捌き、立ち居振る舞いの美しい事。そして脇役は舞台上で、動きが無い時にはそれこそ微動だにしない。彫像の様に座っている様がまた何とも言えず美しい。
 後半は梅王丸が出て来る。僕は学生時代に梅王丸を役者絵にして十数版の多色刷りの版画で彫った事があるので、何となく親近感がある。当時は何も知らずに団十郎の写真をみて彫ったものだが、歌舞伎好きの叔父に「あれは団十郎の梅王丸だね」と即座に当てられて、どうして分かったものかと目を白黒させたものだ。そんな僕が生まれて初めて生きた梅王丸を目にした。今日、改めて観ると成る程梅王丸の化粧は独特であった。団十郎は家紋で分かったものであろう。
 弁天小僧は、子供の頃から訳も分からずに台詞を真似するほど日本人の生活に溶け込んでいる出し物である。僕の子供の頃の十八番は「知らざぁ言って聞かせやしょう」と、新派の「貴方、生きるの死ぬのは芸者のうちに言うものよ」だったのだ。そのくせ新派は未だに観た事はないし、弁天小僧も今日初めて観たもので、何ともお恥ずかしい次第であった。
 僕は歌舞伎役者にはとんと疎いのだが、流石に筆法伝授に出て来た片岡仁左衛門とか、テレビでも良く見る菊五郎、吉衛門、幸四郎ぐらいは知っている。何れも素人目にも芸達者、科白が上手で声も良く透る。そして見栄の格好良い事。僕の目の前の席のご婦人など、「格好良いわねぇ」と思わず隣のご主人にしなだれかかっていた。世が世なら役者買いでもしそうにうっとりしている。
 その位格好良いのだ。そして耳に伝わる科白の抑揚と間が、またなんとも曰く言い難い快感を与えてくれる。友人のオーケストラ指揮者に言わせれば、この間が浸み込んでいるので日本人はどうしてもテンポが遅れ気味になるのだそうだが、この科白の間はやはり日本人にしか分からないのかも知れない。一つだけ分からないのは、見栄を切る時にどうして眼を寄せるのであろうか。あれの意味が僕には未だに分からない。写楽の絵などもみな寄り眼だから昔からの伝統だと言う事は分かるのだが。
 舞台上の大道具も素晴らしい。オペラの舞台のように決して大仰なものではなくむしろシンプルなのだが、それで充分に場面の雰囲気を醸し芝居の振付の役に立っている。そして、回り舞台のアイディアが素晴らしい。黒子の出現と相俟って、極く自然に途切れることなく舞台が転換する。あの知恵は正に日本人的なち密で大胆な発想だと、感激を新たにした。
 今日は僕にとってはまた新たな日本の伝統芸能の素晴らしさ、美しさ、面白さを初めて認識した貴重な観劇であった。今夜は券を呉れた知り合いには足を向けては寝られない。