baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 ウズベキスタン

 ウズベキスタンのガニエフ副首相が現在建設中の経済特区へ日本企業を誘致する為に、今月の20日から来日されるという記事を読んでウズベキスタンを懐かしく想い出した。僕は現役を引く前の4年間ほどの間かなり頻繁にウズベキスタントルクメニスタンを訪問した。特にウズベキスタンには随分頻繁に通ったものだ。それ以前は中央アジアやロシアとはとんと縁がなく、中央アジアについては漠然とシルクロードとか土漠という印象があった程度であった。その後ピーター・ホップカートという人の書いた「ザ・グレート・ゲーム」という本を非常に面白く読んで、多少の知識は得たもののやはり中央アジアは辺境の土侯国という程度の認識しか持っていなかった。
 実際当時のウズベキスタンはまだソ連から独立して間もない、産業も未発達の新興国であった。そんなだから日本から訪問すれば賓客扱いして貰い、関係大臣はもとより副首相にも屡お会いした。一番頻繁にお会いしたのはアジモフ副首相であったが、次によくお会いしたのがこのガニエフ副首相であった。ガニエフ副首相と初めてお会いしたのは東京の帝国ホテルでの朝食の席であったが、第一印象はそれこそロシアの熊のような立派な体躯ながらなんとも人の良い振舞いだった事である。若くして副首相になる程の人だから極めて有能だし押し出しも立派で威圧感が漂うのだが、実は人の良い愛すべき好漢だった。ただ、当時は英語はお得意ではなかった。
 ウズベキスタンの首都、タシケントには第二次大戦後ソ連の捕虜となった旧日本軍の軍人が強制労働で建てたオペラ劇場が残っている。1960年頃にウズベキスタンを襲った大地震で建物が悉く崩壊した中で、このナヴォイ・オペラ劇場だけはビクともしなかったと言う事で、今でもウズベキスタンの人達は日本人の律儀な仕事を賞賛する。僕たちの親の代の人達が、捕虜でありながら立派な仕事をして呉れた事が、現在の彼の地での日本の良い評判に繋がっている。自公政権時代に北朝鮮拉致問題を担当されていた中山恭子氏がウズベキスタンの大使をされていた時代に、このオペラ劇場に日本から桜を移植したが、どうもあまり上手く育たないようである。
 ウズベキスタンでは随分あちらこちらを歩いた。フェルガナに行った時には大統領も宿泊されると言う広大なゲストハウスで歓待された。別の時には、そこから更にキルギスタンとの国境沿いの、それこそシルクロードの4,000m級の天山山脈を近望するところまでピクニックした。ヒヴァに初めて行った時には市長に歓迎され、地元の楽隊と舞踊団が待つ古い宮殿に案内された。舞踊団に混じって、見よう見まねの踊りを踊って大喝采を浴びたりもした。真夏の炎天下の事、美女揃いの踊り子たちが汗臭かった。タシケントでは中央アジア唯一のソ連式地下鉄に乗りたくて、わざわざ車を降りて一駅、二駅、地下鉄に乗った。嬉しくて写真を撮ろうとしたら、同行の者に止められた。ソ連時代からだそうだが、地下鉄には軍事的意味があって写真撮影は禁止されているそうだ。
 ウズベキスタンイスラム教国なのだが、旧ソ連の影響と、厳しい気候の影響もあるのであろう、何処へ行ってもウォッカの乾杯であった。しかし中国の乾杯とは違い、誰かが何か挨拶をして全員が一斉に乾杯するので公平である。日本人だけが集中的に攻撃されるというような乾杯ではなく、温かいものである。顔つきもロシア人とは異なり、やはりアジア系である。ザ・グレート・ゲームを読むと、英国人を騙して捕虜にして首を切ったりするので何となく恐い印象を持っていたが、現実にはアジア的な優しい人達である。とは言え遺跡を歩けば、罪人の首を切って放りこんだ井戸だとか、姦通をした女性を袋に入れて放り落としたというミナレットなど、ザ・グレート・ゲームの雰囲気を残している歴史話もある。
 現役を離れてからは縁も切れたが、今でも彼の地の人々の温かい心を懐かしく想い出す。突然アルバムを引っ張り出して眺めてみた。

 ブハラのアルク城々門。中に入ると両側に天井の高さが1mもない地下牢が並んでいる。ザ・グレート・ゲームによれば手前の広場で英国の訪問団が時のスルタンに斬首された。

 サマルカンドのレギスタン広場に建つ、美しい青い色が印象的な建物。