baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 モーリス・ユトリロ展

 ユトリロ展に前から行きたかったのだが、4日までの展覧会の最終ギリギリでやっと行く事が出来た。ユトリロは学生時代から好きだった画家の一人であるから、是非行きたかったのだ。今日は打ち上げ直前の週末とあって、帰る時には長蛇の列が出来ていたが、暇のある僕はその直前に入ったのでゆっくり鑑賞する事が出来た。これも、若い人には申し訳ないのだが、年寄りの特権である。
 今までは余り興味のなかったユトリロ自身の境遇を今日始めて知った。随分不遇な一生であったようだ。私生児として生まれ、16歳でアル中に冒され、それから71歳で身罷るまで殆ど軟禁されていたようである。彼の絵は30代には既にパリでは大変な人気があり高額で売れていたそうだが、その恩恵の大部分は母親や継父、年上の妻が享受して、ユトリロ自身はひたすら一杯の安酒を夢見て絵を描き続ける毎日であったようだ。軟禁同然だから、彼の絵は写生ではなく絵葉書を題材にして描いた物らしい。
 ユトリロの絵の構図は大体決まっている。モンマルトルの建物や何処ぞの教会など、建物と、手前から奥に向かって走る道である。そしてそこには一切余計な物、自動車とか自転車とかは描かれていない。時として人物のみが数人描かれているが、それは全て下半身が異常に大きい、馬のお尻のような女性の後ろ姿である。顔は横顔が見えたりしているが、マンガチックな人物像である。
 そんな構図は絵葉書的な写真では全く面白くもない。ユトリロの絵にはあれだけの魅力があるのに、どうして同じ絵を写真にしたら見向きもしたくないつまらない写真になるのであろう。別に色遣いが特別な訳でもない。時には鮮やかな色遣いの絵もないではないが、殆どがくすんだ色遣いである。空の色も先週の上海のような、スモッグに覆われたような色である。どこにあれだけの、人を惹き付けるエネルギーが潜んでいるのだろう。
 結局、絵画も究極的な人間の精神の発露なのであろうと言う思いを新たにする。何の変哲もない構図となんの変哲もない色遣いなのに、その筆致に、その混沌と混ぜ合わさった絵の具に、半ば精神を病みひたすら絵画に打ち込んだユトリロの精神の叫びが込められている。ユトリロの歴史を知って観ると、その絵には一層の作者の雄叫びが感じられる。街路樹の紅葉に、雪景色に、モンマルトルの坂道に、見入っているうちに、言葉では言い表せない何かを画家と共有できる錯覚に陥る。