baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 日本人の生活には地球が2.3個必要

 世界自然保護基金ジャパンが、世界中の人が今の日本人と同じ生活をしたら地球が2.3個必要になると言う報告書を公表したそうだ。それによると、日本人はその国土が供給できる量の7倍もの資源を消費しているとして、現在の輸入依存の食生活や膨大な食糧廃棄を見直し改善する努力を促しているそうである。これを彼等の尺度で計算すると、日本人一人当たりが必要とする地球の面積は4.1haで、世界平均の1.5倍になると言う。そして世界中の人が同じレベルの生活をするとすれば、地球は2.3個必要になる計算だそうである。
 こういう比喩はどういう基準で何を計算するかで相当恣意的に結果が動かせると思うので、そのまま受け止める必要はないと思う。しかし僕個人としては、今の日本人の暮らしぶりは非常に贅沢で、相当な資源の無駄遣いをしているという部分には全く同感である。他方、工業製品や素材はかなりの部分が輸出されているので、それに伴う化石燃料消費も含め、全てが日本人の消費ではないのだが、その辺りをどのように計算しているのかを僕は知らない。分からない事は分からないとして、今日は現在の日本人のアメリカ的消費生活を少し反省してみたい。
 東京に住んでいれば先ずヒートアイランド現象がある。昔は舗装していない道路も沢山あったから、雨が降ればぬかるむ反面、雨は吸収されるから河川の氾濫抑止には役立ったし、日照りでも水分の蒸発があった。それが今はどこもかしこも、車が走れない様な裏道でも例外なくアスファルトである。アスファルト舗装は真夏の炎天下であれば玉子焼きが作れるほど暑くなる。信じられないなら実験してみる事だ。アスファルトに油を引いて玉子を落とせば、黄身は固くならないが玉子焼きは出来る。どこもかしこもそんな舗装になってしまったから、昼間の熱を蓄積して夜になっても一向に気温が下がらない。
 加えて東京ではもうまともな庭のある家など殆ど無くなってしまった。代が変わるたびに土地は細分化され、こんな狭い処に良くも建つと感心するほど目一杯土地を使って家を建てる。庭が無いから土が無くなる。或いはコンクリートの集合住宅に建て替えられ、空いた土地はアスファルトにされてしまう。極めて蓄熱効果の高い建造物になるという訳である。
 そんなこんなで昼はもとより夜になっても熱帯夜の連続で、否応なくエアコンを入れざるを得ない。するとまたエアコンから排熱がばら撒かれて、車の排気との相乗作用で気温を押し上げる。無駄の連鎖である。車が頻繁に通る道はともかく、そうでもない裏道はぬかるんでも良いではないか。雨の日に長靴をはいて水溜りで、ただ水溜りだけでバチャバチャ遊んでいた子供時代が懐かしい。そこには土の温もりもあった。時計の針を逆戻りさせるのは難しいが、それでもアスファルト・ジャングルは見直しても良いと思う。
 食糧はどうであろう。例えば、僕の子供の頃はバナナは高嶺の花で病気にでもならなければ口に入らなかったことは以前何処かに書いたが、そんな高級品だったバナナが今やスーパーのワゴンセールである。最近はマンゴー、パパイヤ、パイナップルも珍しくない。殆どの日本人はパイナップルの剥き方も知らないから、食べる時には縦に割って食べるのだろうが、食べ方もロクに知らない南洋の果物が普通に売られている。
 鰻もまた然り。今やシラス鰻が世界的に不漁で資源の絶滅が議論され始め、その70%が日本で消費されていて、日本が白い目で見られているのに全く自粛の影はない。昔は鰻と言えば、鰻屋で食べるか出前をして貰うというのが相場の贅沢な食べ物であったが、今はスーパーで一年中パックにして売っている。鰻の蒲焼などは家でしょっちゅう食べるよりも、偶に鰻屋で本物を食べる方が余程旨いと思うのだが、世の中はそうなっていないようである。
 マグロも同様、日本人が世界中の水揚げの大半を高値で持って行ってしまうと顰蹙を買っている。マグロは養殖も多少始まっているようだが、やはり日本人が世界中の資源を食い荒らしている訳である。しかし、マグロだって昔はそれほど普通に売られている訳ではなかった。それが、今ではスーパーにマグロの無い日は無い。本マグロ、キハダマグロメバチマグロ、何だかだと連日安売りされている。そんなに無理して消費しなくても良かろうと思う。エビも日本の消費の大部分は輸入物である。
 市場原理と言えばそれまでだが、金に糸目を付けずに食べたい物を一年中食べると言う昨今の習慣は如何なものかと思う。その結果として旬という感覚が希薄になってしまった。夏しか食べられなかったトマトや胡瓜が今は一年中売られている。子供の頃ヤブ蚊に刺されながら、そっと泥を掘って獲ったミョウガも一年中手に入る。俳句の季語が今は季語ではなくなってしまった。味と季節が乖離してしまったのだ。でも僕は、何か食べたい物を思い付いたら、その季節が来るまでワクワクしながら待つのも良い事だと思う。散々待った挙句に口に入った時の美味しさは格別である。それも冷凍でもハウス物でもない、文字通り旬の物なら尚更である。
 同様、贅沢品は贅沢品のままで良いと思うのである。普段家庭では味わえない美味しい食べ物があって良いと思う。そういう贅沢なものはお金を貯めて、時々外食して美味しい物を食べるのだ。或いは輸入食料専門店で、綺麗に包装してもらって大事に抱えて帰るのだ。そうする時に、美味しい物、珍しい物が食べられ、元気に働ける事を神様に感謝して、心から「ご馳走さま」と言えるのではなかろうか。飽食と、飽食だから捨てる事にも鈍感な、今の風潮は日本古来の「勿体ない精神」とは真っ向から対立する。地球2.3個分もの浪費を一人一人が考え直す時期かも知れない。