baiksajaの日記

目前の一秒を大切に

 年齢と宗教心

 僕はインドネシアが長いので、現地の友人が沢山いる。統べて、宗教的には女性の方が男性よりも遥かに純粋で敬虔、悪く言えば頭が固いのは洋の東西を問わず一緒のようである。インドネシアでも御多分にもれず、女性の方が圧倒的に宗教に従順である。今日の題では、口では何教と言いながら、奥さんがいなければ際限もなく柔軟な男性の話をしても全く意味がないので、今回は女性に限って話を進めたい。
 現地の友人の中には女性も沢山いる。現地を多少知っている諸兄は、女性の友人と言うと直ぐにカラオケの女性を思い浮かべてニヤッとするかも知れないが、僕が此処で言う女性の友人は閣僚であり、省庁の要人であり、アーティストであり、キャリアーウーマンであり、語学教師の諸氏である。その中でも、イスラムは特に女性が家の外で露出する事には色々と厳しい制約が多いので、プライヴェートな付き合いが出来る大部分の友人はクリスチャンである。しかし、中には開けたイスラムの女性も混じっている。
 僕が歳を重ねるにつれ、彼女らも当然歳を重ねる。最近とみに思うのは、昔は僕から見れば開けていた女性が、歳を経るにつれクルアンの教えにより厳密に己を律するようになって来るのは何故かと言う事である。昔は食後のブランディーを「本当はアルコールを飲むのはいけないのだけれど、今日は皆と一緒だから特別」などと理屈を付けて飲んでいた女性。或いは、クリスマスやニューイヤー・パーティーで「美味しい」と言いながら冷えたシャンパンで乾杯をしていた女性。彼女らが最近はアルコールを口にしなくなってしまった。こちらは不信心だから、何だかだと理屈を付けて一口でも飲ませようとするのだが、昨今は一様に殆ど口にしなくなっている。昔は飲んでいたし、飲んでも平気なのだから少しは飲んでくれたら場は一層盛り上がるのに、この頃は宗教を理由に一切受け付けてくれない。
 聞けば、概ねそのニュアンスは最後の審判が恐くなって来ているようだからである。インドネシアでは日本より余程若く他界してしまうから、50歳を過ぎれば段々と最後の審判が現実のものとなって来るようである。最後の審判は仏教でもキリスト教でも似たような教えであるから、信じる神は異なっても、三途の川を渡れば多分僕等全員、宗教に関係なく被告席に座らされ審判を受けて、生前の善行と悪行を秤に掛けて天国か地獄かの行く先が決められるのであろう。天国と地獄の概念も三大宗教に共通である。イスラム教とキリスト教は同根だから似通っていても少しも不思議ではないが、全く異根の仏教も、更にはチベット密教も同じである処が面白い。
 以前も何度か書いたが、イスラム教は砂漠に生活する野蛮で未開なベドウィンを啓蒙する宗教という一面を持っていたから、クルアンは一見すると一方的に規律を押しつけるような表現も多い。現実には非常に柔軟なのであるが、先ずは問答無用で日頃の生活規律を厳しく律するのがクルアンである。来る日も来る日もドブロクと女と戦争と略奪に明け暮れていたベドウィンに対しては、問答無用も已むを得ない処があった。その教えを守ったか背いたかで、天国へか地獄へかの運命が分かれる。色々と逃げ道は用意してある柔軟な教えだと僕は思っているが、一義的には生活規律に厳しい宗教である。と同時に、天国での、正に極楽とはこういうものかと納得させられる甘美な生活描写は、極めて即物的でもある。
 天国が甘美であればあるほど、地獄は恐ろしく見えて来る。インドネシア語で天国と地獄は「乗るか、外るか」と聞こえる。それ程人生と密着していると言うのは強弁に過ぎるが、信心深ければ深いほど歳と共に宗教書の重みが増し、後生への惧れが増すようである。成る程足下をみても、お遍路などに出る同胞はやはり高齢者が圧倒的に多いようである。時間的な制約が解けるという理由も大きいであろうが、万国共通、齢を重ねると人間は信心深くなるように思われる。如何にも生身の人間らしい、正直な変貌である。僕はと言うと、どうにも未だその兆しはないから、多分僕は未だ若いのである。或いは地獄行きの切符が既に予約されているのか。
 彼の地の断食も残すところ後9日、どこの家庭でも奥さん主導で、ご亭主は奥さんが恐くて粛々と一ヶ月の断食を頑張る。奥さんがいなければ、多分半分位の男は途中で脱落してしまう断食である。そして、また楽しい楽しい回教正月が廻って来る。